ドキドキプリキュア考察~ソクラテスから見る愛と自己中

自己紹介の記事でも書きましたが、私は「愛」に対して強い関心を持っています。私自身は(残念なことに)決して道徳的な人間でも心優しい人間でもありません。人からの評価を気にして行為することはあっても、純粋に人のために行動することはないからです。一方で自己中心的に生きているかと問われれば、それもまた違うように思われるのです。もし私が自己中心的な人間であれば、人に迷惑をかけて生きることに少しの良心の呵責も覚えなかったでしょうから。そんな「善人」にも「悪人」にもなりきれない人間だからこそ、「愛」とは何かという問いに惹かれてしまうのかもしれません。

今回扱うのは、そんな愛と自己中がテーマのドキドキプリキュアです。自己紹介記事でも予告しましたが、高校時代の考察を基にしながら、主人公相田マナさんとソクラテスの主張を重ねていきたいと思います。

まずは問答法です。これはソクラテスが用いた議論の手法であり、対話を通じて相手に自らの矛盾や無知を自覚させ、そこから新たに真理を目指していくというやり方です。つまり智者であるソクラテスが対話相手に真理を説くのではなく、真理を知っているという思い込みから相手を解放することで、両者が共に真理を正しく探求できるようにするのです。

こうした議論の仕方は、マナさんにも通じる点があるように思われます。最終回で彼女は、世界征服を目指すプロトジコチューに対して次のような言葉を向けるからです。

もう、何言っちゃってるかな。世界をひとり占めしたら、たしかにわがまま勝手し放題。けどね、たった一人の世界だったら、あなたは横入りも信号無視もできなくなるんだよ。そう、自己中っていうのは結局誰かに迷惑をかけて振る舞うこと。誰もいない世界では、 あなたは自己中でいられなくなる!」

[ドキドキプリキュア 第49話]

つまりマナさんは、世界征服と自己中が両立不可能であると指摘することで、プロトジコチューの目的の矛盾を明らかにするのです。さらに、この批判を受けたプロトジコチューが彼女のプシュケーを抜き取ってしまったことも、対話によって真理を追究したにすぎないソクラテスが怨みを持たれ、最終的に処刑されてしまったことも想起させます。

次に無知の知です。これは自分も相手も無知であるのだが、その無知を自覚しているという点で、他の人々よりも優っているという考え方です。つまり、無知の自覚できる者は、自分が知者であると思いこむ者よりも、ほんの少しだけ多くの知を持っているのです。マナさんも愛に関して、これと近いことを話しています。

わかるよ、私の中にもわがままな心はあるもの。誰かを妬んだり何もかも嫌になって投げ出したくなったりすることもある。けれど、そうやって悩むから、苦しむから、人は強くなれるんだと思う。それに、たとえ私が愛を見失ったとしても、私には仲間がいる。支えてくれる仲間がいるから、私は絶対に何度でも立ち上がってみせる!

[ドキドキプリキュア 第49話]

マナさんは六花さんに「幸福の王子」と称されるほど愛にあふれた人間ですが、そんな彼女でさえ自己中の自覚を持っているのです。たしかに、彼女のいうように自己中が「誰かに迷惑をかけて振る舞うこと」であるならば、幼馴染の六花さんに迷惑をかける彼女の行動も自己中であると言えるでしょう。

また、数は少ないですが、誰かを妬んだり何もかも嫌になって投げ出したくなってしまうような描写もあります。後者については、映画「未来に繋ぐ希望のドレス」における、マナさんが想い出の世界でおばあさんと犬のマロに再開し、もとの世界に帰るのを一度は拒んでいた場面などが挙げられるでしょう。彼女を現実世界に引き戻したのが仲間たちの声であったことも、この言葉に説得力を与えています。また前者についても、第10話の、マナさんと急速に距離を縮めるまこぴーに六花さんが嫉妬する話の中で、マナさんが言った「みんな同じだったんだ。みんな胸がキュンとして、チクンとしてたんだ!」といった言葉などがあてはまるかもしれません。

完璧超人にみえるマナさんですが、彼女も私たちと同じように自己中な心を持った一人の人間なのです。そして、自分のわがままな心を知りながら、愛を与え続けることができるからこそ、彼女の愛は優れていると言えるのです。
 
最後は知行合一です。これは真の知は必ず実践へと向かい、現実の行為に結びつくというものです。つまり、ある人が勇気について知っているというためには、勇気ある振る舞いをすることが必要なのです。この知行合一も、愛に適用できると私は考えています。それが示すのがレジーナの行動です。キングジコチューとの決戦の前に愛を取り戻した彼女は、マナさんに次のように話します。

マナ、私嬉しいの。パパは世界を滅ぼしても、娘の私を救おうとしてくれた。あなたたち、そんなに大きな愛をもらったことある?私だけよ、あるの。そんな私がパパを捨てるわけない。私は最後まで、パパのために戦う。

[ドキドキプリキュア 第46話]

この時、レジーナの目の色は赤から青に変わりました。しかしなお彼女は自己中なのです。というのも、マナさんは自己中を単に自分中心に行動することではなく、「誰かに迷惑をかけて振る舞うこと」としているからです。たとえ心が愛に満ちていても、行為が他者に迷惑をかけることを意図しているならば、それは自己中なのです。レジーナはたしかに父への愛によって行動しており、それは非難できることではありません。しかし知行合一の観点から考えれば行為に愛が現れないかぎり、それは真の愛とは言えないのです。逆に言えば、自己中な心を抱きながらも、行動によって愛を示すことができるマナさんは、やはり愛ある人物だと言えるのではないでしょうか。

以上、問答法、無知の知、知行合一の3点から、ドキドキプリキュアを考察してきました。今回は最終回付近をメインに扱ってきましたが、特に自己中の定義や解釈についてはまだ不十分な部分もあるので、その点はまた次の機会に考えてみたいと思います。

それでは

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