私のニーチェ観②~生の無意味さとの向き合い方

何者かになりたい。そう考えることはないでしょうか。

私はよくこのことに悩んでしまいます。つまり、何か他と違う特別な人、さらには他人よりも優れた人でありたいのです。

ところが凡人である私にとって、これは簡単なことではありません。何に取り組もうとも、その先にはるかに優れた人がいます。視野を周りの人間に限定しても、それは変わりません。必ず自分より優れていると思えてしまう人が存在するのです。

人と比べても、幸せになれないというのはよく言われます。しかし周りよりもなるべく結果を出したい、認められたいという気持ちを原動力としてきた私には、それは非常に困難なことです。他者と比べることなしに、私は何を目指せばよいのでしょうか。

ニーチェの永遠回帰はそんな私にとって毒でもあり、薬でもあります。『愉しい学問』という本の中で、ニーチェはデーモンに次のように語らせます。

「おまえが現に今生き、またこれまで生きてきたこの生を、おまえはもう一度、ひいては無数回にわたって、生きなければならないだろう。そこには新しいものなど一つもなく、あらゆる苦痛が、あらゆる快楽が、あらゆる思想と溜め息が、おまえの生の名状しがたいほどちっぽけなものや大いなるものすべてが、お前に回帰してくるにちがいない。しかもすべてそっくり同じ順番で。――この蜘蛛も、木々の間から射し込んでくるこの月光も同様に。またこの瞬間も、私自身も同様に。存在という名の永遠の砂時計は、繰り返し繰り返しひっくり返される――それとともに、一抹の塵埃にすぎぬお前もだ」

(ニーチェ,森一郎訳,2017,『愉しい学問』341番 講談社)

長く引用しましたが、もし私の人生がこの先無限回繰り返されるのだとしたら、私は生に意味を見出すことはできなくなります。それは特別な生とは対極にあるものです。いかなる行為も、すでに無限回為され、これからも無限回為されることにすぎないのですから。一方で、それは他のすべての人にも言えることでもあります。そのためどの人間の生も私の生と同じく無意味なものということになり、そうなれば私は他人との比較に悩む必要はなくなるでしょう。

こうした開き直りは、ニーチェの言葉によってのみ導かれるものではありません。どんな人も、ある瞬間に生の儚さに直面しなければならないからです。それは「死」の瞬間です。「人はいつか死ぬ」「1万年もすれば私を知る人は誰もいなくなる」こうした事実と向き合ったとき、生の無意味さに絶望する人もいれば、自分の生の責任から解放に安心を覚える人もいるでしょう。私は間違いなく前者の人間です。

私が大学で哲学を学ぶと決めた際、何となく感じていた死への恐怖に対する解答が得られるかもしれないという、淡い期待もありました。しかし残念ながらその恐怖は今もそれほど変わりません。それでも、ニーチェが永遠回帰を超越した「超人」という存在を志向したこと、つまり生の無意味さに直面してなおこの生を肯定することを目指したこと、それは私にわずかな希望を与えてくれます。

何者かになりたいという願いは、そもそも人間に適えることはできないのかもしれません。それでも私は私として、自分が納得できる生を目指したいです。

(キェルケゴールの読解の続きは、おそらく次回できるかと思います...)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?