素敵な理由は、純度の高い理由には勝らない。
大人になると、行動の一つ一つに意味や理由や動機を求められます。
「意味なく行動することは許さない」と言わんばかりに、それなりに納得できる説明を迫られて、聞かれた人は相手を説得するために必死になります。
そういう会話ばかりしていると、「しっかりとした理由がなくちゃ行動してはいけない」という思考のくせができてきます。
行動の理由を考えて、あまり良い理由が思いつかない人もいれば、それなりに志の高い理由を出せる人もいて、行動力にも差が出てきたりします。
そう考えると行動の理由というのは、僕らの人生を左右するほど重要なものなのでしょう。
ただ、僕は少し疑問があります。
行動の理由まで、他人に認めさせる必要があるのでしょうか?
その理由さえ素晴らしければ、どんな行動の結果も良くなるのでしょうか?
その理由は、本当に自分がやりたいことと一致しているのでしょうか?
少なくとも、僕はそんなふうには思えません。
むしろ、理由を考えて初動が遅くなるなら、あまり何も考えずに行動してみた方がいいと思います。
こう言うと、「考えるよりもまずは行動!」と言いたいだけように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。
きっと、どんな行動をするにも、それなりの理由があるはずです。
ただ、その理由に嘘をついたところで、道は拓けないんです。
僕は、嫌な仕事をするときに、「これは間接的に世の人を喜ばせることになるんだ!」とか「これは未来のために必要な行動なんだ」とか思っていました。
意義があるものと思うことで、嫌な仕事という意識を少しでも減らしたかったのでしょう。
でも、自分という人間だけは上手く騙せなくて、自分に嘘をつくと同時に「今、俺は嘘をついているな」という自覚があり、それが辛いと感じていました。
逆に、好きな仕事をするときは、大した理由もないはずなのに、勝手に体が動いていました。
おそらく、僕がそうできたのは、好きな仕事をやる理由が「楽しいから」という理由以上のものがなかったからです。
そして何より、「楽しい」の純度を上げ続けていたからでしょう。
ただ好き勝手にやって何の創意工夫もしていなければ、仕事しては成立していなかったと思いますが、純度を上げ続けると行動が変わっていきます。
もっと自分が楽しいものにしていきたいし、他の人にも楽しんでほしいという思いが溢れると、どんどん創意工夫が生まれて、自分がやったことのないことにチャレンジすることも厭わなくなります。
本心と理由に隔たりがないので、何かを思い込む必要はないし、創意工夫も自然と生まれる。
楽しむために楽しめること以上に結果を出せることはないし、続けられることもありません。
仕事であろうが趣味であろうが人間関係であろうが、楽しむために楽しむ。
利益とか社会的意義とか何かを忘れるためとか、そういうものがなくてもいい。
「好き」とか「楽しい」とか「カッコいい」とか、そんな安易に聞こえる理由でも、純度を上げれば素敵な理由に匹敵できるほどのパワーを持つことができます。
むしろ、そんな安易な理由だからこそ、ゴールがなかなか見えなくて続けられるのかもしれません。
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