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北京神社の、ごく短い、歴史。

中国の首都北京。そこにも神社が造られていた。ごく短期間存在しただけだるので、知っている人は少ないが、確かに神社が北京に建っていた。場所は地下鉄建国門駅の近く、社会科学院に隣接する場所。天安門の前を通り、北京を東西に貫く長安街に面した土地である。

北京は元の大都から続く中華の中心都市であった。蒋介石率いる国民政府は南京を首都に定め、都でない北京は北平に改称されていた。1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が勃発した。日本軍は7月29日北平を占領。10月には北平を北京に改称。12月には華北地域を統治する傀儡政権の中華民国臨時政府を設立した。


北京の帝国大使館内には招魂社があり、毎春に居留民を集めた招魂祭が行われ、北京の氏神とされていた。また北京市内には、民間人が自主的に作った稲荷神社もあった。事変後に邦人が急増すると、「われ等の北京神社」「日本帝国の宗旨としての神社」を熱望する声が上がるようになった。

北京 都市計画図 日本 地図001

左中ほどに神社、神社敷地と記載がある。

『老北京地图的记忆』:宗绪盛 (中国地图出版社)から

 北平を占領した日本軍は、人口の激増に対応すべく昭和13(1938)年4月に北京城の東西の郊外に新市街を作る都市計画案を発表した。開発計画では、北京城東側につくる新市街内の八宝山付近に巨大な神社地が設定されていた。一時この場所が北京神社予定地にもなったようであるが、「神徳が冒涜される恐れ」から、この場所は取り止めになった。史料も少なく、実際の動きはよくわかっていない。

北京神社 尋捜老北京城 009

貢院の様子『尋捜老北京城』(中国民族摄影艺术出版社)から


 昭和13(1938)年夏に北京神社奉斎会が北京総領事を中心に結成された。北京神社の創建案を作るにあたっては、内地では内務省神祇局角南隆や、明治神宮宮司中島正國の意見を参考にし、現地では華北交通や興亜院などとも協議を行った。海外神社活動家とも云うべき小笠原省三は「北京神社は支那に於ける神社の模範とすべきものだ」と述べていた。

北京011

『北京案内記』安藤更生 (新民印書館)から

 最終的に、神社は貢院跡に建てることに決まった。貢院とは、明・清時代に科挙の試験場があった場所である。清末期に科挙が廃止された後も建物が残っていたのだが、中華民国政府がこの土地を模範市区にしようとして失敗し、空いた土地になっていたことから、神社用地として白羽の矢が立ったものであった。北京神社を城内の貢院旧跡に、北支神宮を郊外新市街の八宝山周辺にと、2社とも創建する景気のいい話もあったようだが、華北総鎮守北支神宮が創建されることはなかった。

北京神社 地鎮祭 毎日台湾 s14.11.11

大阪毎日新聞台湾版 昭和14(1939)年11月11日

北京神社 大阪朝日新聞北支版 S15・6・4

 大阪朝日新聞北支版 昭和15(1940)年6月4日

 昭和14(1939)年11月2日に正式に神社創建が決定し、同月8日地鎮祭、翌年4月に上棟祭、6月24日に鎮座祭を行った。25日の鎮座臨時大祭には北京在留邦人の半数3万人もの邦人が訪れた。大陸に社格制度が導入されることはなかったが、官国弊社の小社に準じた神社であった。
 昭和15(1940)年3月30日中華民国(汪兆銘政権)が設立されると、中華民国臨時政府は華北政務委員と改称し、高度な自治権を持ちながら中華民国政府の一部になった。同年9月には中国政府が神社西側の土地1万5千坪を公園として整備し、神社外苑として使う計画が発表された。鎮座後も、境内への植樹の勤労奉仕動員が行われ、併せて社務所・神饌所・回廊などの建設も進められた。最終的にどういう境内や外苑になったのかは不明。神社では、北京隣組の結成式や、居留民大会などが開催されていたことが確認できる。また、下の写真にあるように、大相撲華北巡業の際、双葉山が北京神社に参拝している。日本で撮った写真と言っても誰も疑問を持たないであろうが、これは北京なのである。こうした情景を植民先に作り上げることが、当時の邦人居留民の望みであった。北京神社は北京城の城壁に隣接していたので、城壁から神社を見下ろすことができた。海外神社は街を見下ろす小高い場所に建造されることが常であり、見下ろされる場所に造られた神社は珍しい。中国においては、空いた土地に神社を建てる程度しかできなかった、とも言える。

北京神社


 戦争末期には、北京神社境内の防空壕に、蒙疆や北京周辺の神社の御神体を避難させていたが、敗戦後北京神社の御神体と共に昇神・焼却を行った。『占領秘録』住本利男には、1945年9月末中国人が神社を壊して燃料にしようとしたが、戦後も治安維持活動を行っていた日本軍が中国側憲兵に連絡し、この動きを阻止したとの記述がある。しかし、10月16日に、国民党兵士による大規模な略奪を受けたようである。1945年10月10日、華北方面軍は故宮で国民党に降伏。華北地区の引揚げは1945年10月から翌年6月まで続き、中国全域から約152万人(軍人・軍属105万人)が日本に引揚げた。


 現在、北京地下鉄建国門駅北側の胡同(取り壊され、ほとんど住む人は残っていないが)及び、中国社会科学院が建つ場所が北京神社跡である。神社遺構は何もない。北京城の城壁は破壊され道路になったが、神社跡地の向かい側には、城壁上で天文を観測していた古観象台が残っている。ここに上がると、旧城壁の高さから神社跡地を一望することができる。

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