北満の総鎮守、哈爾濱神社
三国干渉で清に貸しを作ったロシアは、シベリア鉄道の短絡線を中国東北部に敷設する契約を清と結んだ。この鉄道工事の拠点になったことが、哈爾濱の始まりである。1901年3月中国東方鉄道(以下中東鉄道)の哈爾濱・綏芬河が開通、6月に哈爾濱・大連間が、1904年に哈爾濱・満洲里が開通した。中東鉄道は、駅周辺の土地を附属地として開発し、中でも哈爾濱は東洋の巴里とも唄われる大都市になった。
日露戦争に勝利し、日本は中東鉄道南部線の中の大連・長春区間を手に入れた。大正8(1919)年西伯利亜兵站部司令官高木大佐が中心となり、日露戦争で死亡した横川省三・沖禎介の慰霊と顕彰のために哈爾濱に神社を創建する運動をおこした。この時、明治42(1909)年哈爾濱駅で安重根によって暗殺された伊藤博文も祭神の候補に挙げていた。横川と沖は日露戦争中、中東鉄道の破壊工作に失敗して、哈爾濱郊外で処刑された人物で、彼らを含む6人を顕彰する志士の碑が処刑された場所に建てられた。下記リンク先のように哈爾濱護国神社の史料もあるが、これは横川・沖の処刑地跡にあった祠のことを護国神社と呼んでいたものと思われる。横川や沖は哈爾濱にとっての軍神のような存在であった。全くの余談であるが、このような、ある土地にとっての軍神のような存在は植民地の各都市にあったものと思われる。
昭和6(1931)年9月18日に関東軍が満州事変を起こしたが、ソ連との関係から翌年2月15日まで哈爾濱は占領されなかった。占領後、哈爾濱駅ホームの伊藤博文暗殺現場に大理石の目印を埋め込んだ。事変前哈爾濱在住の邦人は3800人程度だったが、事変後激増し、康徳2(昭和10・1935)年には2万7千人にまでなっている。また、ソ連から逃れた白系ロシア人も多く住むようになった。康徳2(昭和10・1935)年、満鉄はソ連から中東鉄道を買収し、旧中東鉄道の全ての路線をその管理下においた。
写真左側の何もない土地が社地である。相撲場と思われる建物が見える。
康徳元(昭和9・1934)年に関東軍が決定した哈爾濱都市計画では、郊外の新都心に神社を作ることにしていた。しかし規模が大きく、造営に時間がかかるので、康徳2(昭和10・1935)年2月、哈爾濱におけるロシア正教の中心であったニコライ大聖堂(通称中央寺院)前の空き地に、仮殿を創ることに決めた。駐哈軍、特務機関、領事館、省市公署などの関係諸機関が協同し、2月16日に地鎮祭、3月10日に哈爾濱神社鎮座祭を行った。たったの一月で完成する程の突貫工事であった。
北満総鎮守ということであったが、広い敷地に小さな社殿があるだけで、康徳4(昭和12・1937)年に現地を見た中島正國は「境内は平地で広く、周囲の状況も悪くない。されど全体の設計工作甚だ稚拙である。道を距てて立ち並ぶ中央寺院の大伽藍に比し面恥しい心地がする」と書いている。創建当初は専門神職が間に合わず、金光教や天理教の教師が臨時神職を勤めていた。後には、満蒙開拓団が満洲北部に多く入植するようになったこともあり、開拓地の神職養成を行うようになっている。
康徳7(昭和15・1940)年、紀元二千六百年を記念して社殿改修が計画されたが実行されたかは不明。康徳9(昭和17・1942)年段階では、広い敷地に神明造の本殿、拝殿、幣殿、神饌所、神輿所、赤煉瓦の社務所、相撲土俵が点々と建っていた。満洲国の一都市となっても、哈爾濱が国際都市であることに変わりはなく、国防婦人会が神社で兵隊を送りだす時、その中に白系ロシア人がいることもあったのであった。
1945年8月9日ソ連軍が哈爾濱郊外を爆撃。15日に終戦放送が流れると、直後から街中に青天白日旗が掲げられ、反日デモ、満洲国軍の反乱なども起きた。20日にソ連軍が入城、中央寺院を挟んで神社の反対に位置するホテル・ニューハルピンにソ連軍司令部を置いた。武装解除の為に1,000人程が神社敷地に集められ、中には拳銃自殺する者もいた。満洲の各都市や開拓地から避難者が哈爾濱に集まったのであるが、その人々の引揚げが始まるのは1946年8月下旬になってからであった。
哈爾濱神社跡地は戦後運動場として使用されていたが、今は高層ビルが建っている。神社遺構は全くない。中央寺院は文化大革命時に取り壊された。哈爾濱神社の移転予定地とされていた場所は黒龍江省中医薬大学の辺りである。忠霊塔は巨大さを生かして軍のパラシュート訓練施設として利用されていたが、今はない。哈爾濱駅は2018年暮に建替えのために取り壊され、伊藤博文の暗殺現場だったホームも取り壊された。
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