僕が文明批判よりもしたいこと|稲見昌彦×細田守対談シリーズ 第1話
イントロダクション
稲見 本日は、特別ゲストとして細田守監督に我々の研究室、リビングラボ駒場にお越しいただきました。自在化身体セミナー、そして(東京大学の授業の1つである)人工現実感特論の講義の一環という形です。本日はよろしくお願いいたします。
細田 こんにちは。アニメーション映画監督の細田守です。今日はどうぞよろしくお願いします。
稲見 まず私から伺いたいのは、細田監督の色んな作品がある中で、今の言葉ではメタバースと申しましょうか、そういう技術が登場することが多いと思うんですけれども、どういうお考えで登場することになったんでしょうか。
細田 そうですね。僕は去年、『竜とそばかすの姫』という作品で、インターネット世界にもう一人の自分を設定して入っていく女の子の話を作ったんですが、これって実は20年くらい前から継続してやっていることでして。(2000年に)『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』っていうインターネットを舞台にした映画を作ったのが最初です。そのころからずっと、インターネットの歴史的な変遷、社会がどのようにインターネットを変えるかってことに寄り添ったり、ちょっと先に進んだ未来を映画の中で見せることをやってきて。
今回の『竜とそばかすの姫』は、『デジモン』、(2009年公開の)『サマーウォーズ』に引き続きインターネットが舞台なんですけれど、当時のインターネットは道具だったのが、今やもう道具じゃなくて一つの世界に変化したんじゃないかって思ったんです。その仮説のもとに、ちょっと先の未来、インターネット内でみんながコミュニケーションを取るような世界を、アクション映画の舞台として設定するとどうなるかって考えてました。
ただ、コロナ禍になって、映画の中ではちょっと未来って考えてたものが、ぐっと現実に近い世界になったなと。去年、まさにコロナ禍の中で公開したので、非常にリアルタイム感のある映画になった気がしています。さらにその先の、もっと詳しいところを今日は稲見先生に聞きに来たというわけです。
稲見 なるほど。ちなみに細田監督はデジモンに関わってらっしゃったわけですけど、実は、我々の研究室の檜山(敦)特任教授が、2000年過ぎに、国立科学博物館のイベントで、今で言う「ポケモンGO」になぞらえると、デジモンGOみたいなものを作ったことがあって。まだスマホもない時期で、PDAと呼ばれていたタブレット型のコンピュータを持って行くと、博物館の中に隠れたデジモンを集めていける。そういう意味では、研究室としては(細田監督の仕事と)ちょっとつながってるところもあったのかなと。
細田 相当早いですね。すごいな。
稲見 はい。一方で、「研究者あるある」なんですが、研究者は基本的に世界初がすごい大切なので、タイミングがいいかどうかはなかなか考えずに、がむしゃらに、空気を読まずに、カッとなって作っちゃうんですよね。そういう意味では、ちょっと早すぎたといえば早すぎたかもしれません。
物語は技術の先を見通す
稲見 フィクションとしては少し先の未来って大切だと思うんですけれども、一体どういうふうに構想されていらっしゃるんでしょうか。
細田 そうですね。『竜とそばかすの姫』では「ボディシェアリング」っていう技術があります。実は、最初に映画の中でこういうことができないかってことをシナリオで書いて、その後リサーチしたら、まさにそれを研究してらっしゃる玉城絵美さんに出会うことができて。そこでより具体的に、「どんなふうに運用してるんですか」「技術的にこれからどう発展して、最終的にどこを目指してるんですか」といったことを取材させてもらいました。
『デジモン』だとデジヴァイスっていう不思議なデバイスで起こるようなことを、実際に科学的に可能にする装置としてボディシェアリングがある。玉城さんに聞くと、ボディシェアリングがもし社会に広がると一体何が起こるか、みんながボディシェアリングを通して日本中のどこに遊びに行きたいか、どの県が過疎化してしまうか、みたいなことまで研究してる状態で、すごいなって思いながら拝見してました。
稲見 今ある技術のリサーチ以前に、まず最初に「きっとこうなるだろう」と頭の中で発想なさって。どちらかというと、そのリアリティを高めるために、実際こういう研究もあるから、自信を持ってこちら側に進んでよいという感じでしょうか。
細田 そうです。あともう一つあるのは、VRの世界に行くのに『竜とそばかすの姫』ではVRゴーグルをしてないんですよね。
稲見 そうですよね。あれ、すごいですよね。
細田 「本当かな」と思うかもしれないけど、玉城さんによると、将来的には可能なのではないかと。倫理的な問題があって、実現するのはちょっと先かもしれないけど、後頭部の方の脳の領域を刺激すると、ゴーグルなしでもいけるんじゃないですか、みたいな話がありまして。
稲見 うん、第一次視覚野とかですね。
細田 そうすると何がいいって、ゴーグルをしないでインターネットの世界、(『竜とそばかすの姫』では)U(ユー)っていうんですけど、そこと現実の世界の両方に接続したまま動けるので、河原を走りながら同時にバーチャル世界にもいることが可能になるんです。ゴーグルしちゃうと、どっちかですよね。
HMDは要らない?
稲見 なるほど。私は、コロナの前から色んな国との共同研究とかをZoomでつないでやってたんですが、コロナになって始まったのがダブルZoomといいますか。こちら側で会議Aに出ていて、こちら側で会議Bに出ていて、それを同時に聞きながら、本当に必要になったときだけ大切な方の会議に行って発言するみたいな。
今まではオンライン・オフラインとか、現実世界とコンピュータの世界というふうにオン・オフで切り分けていたのが、実は世界ってある程度、滑らかにオーバーレイ(重畳)可能なものかもしれなくて、両方に同時に存在しながら注意を向けていくことも、将来的には可能になるかもしれない。それを見据えたのが、HMDによるVRなのかもしれません。
ただ、HMDをかぶると絵にしにくいと申しましょうか。表情が見えにくいですよね。今もだいぶ問題になってますけれども。もちろんHMDの中にうまくセンサーを仕込んであげると、表情とか目の動きとかを撮ってアバターに反映したりすることはできて。実は我々も過去にやっていたんですけど。
HMDを使った方が、解像度が高いとかもあるでしょうけど、それがあることによってどういう新しい生活が可能になるのかは、今から考えてもいいかもしれません。
細田 そうなんですけど、特に女性、若い女の子に普及するには、そこを乗り越える必要があるって気がしたんですよね。これだけ前髪を気にする人たち。我々はそんなに気にしないからいいんですけど。
やっぱり、自分自身の外見も気にする人には、もっと別の形があり得るんじゃないかってことも、社会的な要求の一個だと思うので、ぜひ現実に解決していただきたいなって思うんですよね。
稲見 そうですね。今って第二次か第三次VRブームぐらいになっていて、私が学生だったときの90年代が第一次VRブームだったんですけど、当時のHMDは、解像度も低いし、重いし、今以上に問題だった。そこで出てきたのが、まさに人の周りを全部立体スクリーンで覆ってしまう、昔のロボットのコックピットみたいな感じですかね。
細田 はいはい、Zガンダムあたりの(笑)。
稲見 おっしゃるとおり(笑)。研究者は心の中でZガンダムだと思いながら、そういうものを作ったんですけれども。やっぱり眼鏡なしは一つの大きなチャレンジだと我々は思っていて、なかなか難しいところもあるかもしれません。
あと、先ほどの玉城さんが恐らく想定されていたのは、今、イーロン・マスクがニューラリンクでやってるみたいな埋め込み型で、人の後頭部の一次視覚野を適切に刺激してあげると、光のパターンぐらいは見えるみたいなことが、目の不自由な方への治療でやられていたことがあって、たぶんそこがベースかなと思うんですけれども。脳とかを直接刺激するものも、たぶん、近い将来出てくるかもしれません。
どこまで一般人に通じるか
稲見 一方で、本当にメタバースファーストの時代が来るとするならば、物理的な前髪はどうでもよくなったりしないんですかね。
細田 ああー、そうなんですかね。
稲見 移行期が必ずあるので、一気にはいかないと思うんですけれども、例えば今日は私、ジャケットを羽織ってますが、家で、特に画面オフの研究室ミーティングとかをやっているときは、もうちょっと緩い格好なんですよね。
細田 そうか。ジャケットなしでも可能な、このスタイルが社会的に浸透するかもしれない。
稲見 VRの中ではきちんとジャケットを着ていて、あるときはザ・大学教員みたいな感じになっているけど、実は同時にプレイしているゲームの世界では山登りの格好をしているとか。「どちら」ということ自体がもはやよくなる議論かもしれないと。自分の主軸が情報でできた世界、もしくはフィクションの世界だった場合は、そうじゃない方(物理的な世界)の重心は軽くなったりしないんですかね。
細田 僕は、必ずしもそうじゃないと思うんですよ。研究者の人、特にVRを研究する人は、自分が動きたくなくて、部屋の中にずっといる状態で様々な人生の体験をしたいって欲望がどうも共通してあるようなんですが、それって一般の人にも通じるのかなと。
もっと現実というか、VRによってもっと外に出て、現実そのものがもっと楽しくなる。これはARということじゃないですよ。もっと現実そのものの価値を再定義することによって楽しくなるものがいいんじゃないかと思うんです。
ディストピアを描くより
細田 やっぱり部屋の中にずっといるっていうのは、ディストピア的な感じに僕なんかは思えてしまいます。それこそちょっと古いSF、『マトリックス』とかはまさにそうで、あれって一種のディストピアであって、ひょっとしたら研究者の方の欲望を忠実に再現した姿かもしれないけど。フィクションの世界では、それとは全く違う領域に行きたいなって思ってるんですよね。という意味で、(研究者には)その技術開発をお願いしたいと。
稲見 確かに細田監督の作品の中に出てくるメタバース的な世界は、海外のSFと比べて、ディストピアにはなっていませんよね。もちろん、悲しい事件とかはあるんですけれども。基本的に皆さん楽しんでいるところが特徴かなという気がするんです。
細田 そうですね。日本ではあまり言われないですけど、海外のジャーナリストはみんな口をそろえて言いますよね。ヨーロッパでもアメリカでも南米でも、それこそロシアでも言われますけれども、「こういうバーチャルな世界を普通はみんなディストピアとして描くよ」と。
それこそチャップリンの『モダン・タイムス』じゃないけど、「映画はどうしても現代の文明批評的な側面から作りがちで、新しい技術とか社会を変革するような技術は批判的に描きがちだよね。ところが、あなたの『竜とそばかすの姫』は全然そうじゃなくて、そこを肯定的に描いているところがとても珍しい」って言われるんですね。
それに対してどう答えるかっていうと、「僕は文明批評をするために新しいテクノロジーを描いているわけじゃなくて、これから若い人が新しい技術を使って古い世界をぶち壊して、新しい世界を打ち立ててほしい、そういう思いを込めて作っている」と。それはもう、『デジモン』のころからずっとそうなんですよ。
僕ら大人がどうしようもないなと思っている現実を、若い人に打破してほしいって思ってるので、新しいジェネレーションや若い人そのものを肯定的に描くためにそうしているんだって。そうすると、みんな納得するっていうか、非常に分かってくださるんです。
稲見 そうですね。こういう分野の研究の特徴としても、そういうポップカルチャーとの相互作用なのかもしれませんが、どうしても技術に対しての後ろめたさとか、そういうものも含めて考えなくちゃいけない。自在化身体プロジェクトやってるMetaLimbsも、海外のSF映画だと悪役のイメージなんですよね。
細田 そうですよね。ディストピアになっちゃうのは、色々そういうフィルターもあるんだと思うんですよ。社会が変容することによって、ずっと守り続けてきたものが否定されちゃうんじゃないか、ってこともあると思うんです。
でも、やっぱりそれだけじゃないところにたどり着く必要がこれからはあると思いますし、現にそうならざるを得ない。加速度的に技術が進化していくと、本当に(大人が)追い付かないぐらいに世の中が変化する、もしくは変化してほしい。技術的な進歩だけじゃない、さまざまな要因で世の中が変化している中で、やっぱり若い人が、僕らの子どもたちが希望を持って生きていく世の中にするのに、僕らがどれだけ貢献できるかっていう話なんで、大事だと思うんですよね。
稲見 とはいえ、世界的には珍しいんですよね。
細田 珍しいみたい。何ていうか、ディストピアで不安をあおると商売になるっていう変な考え方が、映画の世界にあるのも何となく感じてるんですよね。つまり科学技術をダシにして、「人間性が奪われるぞ」みたいな。映画の作り手からするとそういう意図が何となく透けて見えちゃうっていうのかな。「結局商業主義なんじゃないのかな、それは」っていう気がしちゃう。
稲見 そちらの方がテンプレ的になってしまうという。
細田 そうです。だから、ディストピアであるってことは(映画のコンセプトに)採用しなくてもいいんじゃないかなって気がする。
稲見 SFでも、ジュール・ヴェルヌはユートピアの話が多いんですけれども、(H. G.)ウェルズはテクノロジーの先としてディストピアが最初から入っていた気もしますし。文明を構成する要素って決して技術だけではなく様々なものがあるはずなのに、なぜか文明批評は技術批判になってしまう。
細田 そうそう。技術だけがやり玉に挙げられたり、すごい人間性を阻害するものだって言われがちだし、最近のシンギュラリティ議論だって、結構そういうところがあるかもしれませんよね。もちろん新しいものができて社会が変容するわけですから、社会的な葛藤があるのは当然なんですけど、もうちょっとイーブンに見たらどうかなという気はしますよね。
ユートピアの裏返し
稲見 一方で、学生によっては、もう点滴で生きていたいという人もいたりするんですよね。
細田 (笑)まあ、そういう欲望も分からなくはない。
稲見 それこそ、『マトリックス』みたいな世界がディストピアじゃなくて、あれはユートピアという人もいたりして。もっと言えば、ある人にとっての地獄が、ある人にとっては天国かもしれない。それも含めて、世界は多様な方がいいかもしれない。
細田 ディストピアの裏返しがユートピアで、ユートピアの裏返しがディストピアなんで、表裏一体な感覚ですよね。
稲見 だって、例えば私、1人で山の中で生活しろと言われたら駄目ですね。怖い虫もいるし(笑)。たまに山登りだったらいいんですけれども。この前も、生まれて初めてヒルに噛まれてしまって。宮崎の小林市の山の中に行って、クリ農家を視察している間に、血を吸われてたって感じで。全然痛くも何ともないんですけど、東京育ちの私にはだいぶショッキングでした。
でも、それこそ物語の中では、オオカミになって山に住みたいという選択もあったり。
細田 もちろん。そういう生き方も含めて、世界は多様な価値観であるってことが、僕らを自由にすると思うので。やっぱりそれは大事なことですよね。
工学で実現する自由
稲見 今おっしゃった自由というのが、すごい大切なキーワードかもしれなくて。監督のお考えになる自由とは、どういう意味で使ってらっしゃいますか。
細田 自由って割と当たり前なものだと思っているけど、やっぱりコロナ禍だったり、今のウクライナ紛争だったりを経験すると、それらによっていかに僕らが抑圧されているか、僕らよりも若い人たちが将来に対して余計に抑圧を感じてるかってことをすごい感じるんですよ。だからこそ、今までよりも意識して自由を表明しないといけない時代だなという気はすごくしてるんですね。
映画で自由を表現するのは、もう当たり前のことで、あえて言うまでもないことなんだけど、「この映画は自由を表現してるんですよ」って言わないといけない時代なのかなと。それはすごい強く感じます。
今のは映画的な自由ってことなんですけど。稲見先生的には、工学部的な自由っていうのは一体どういうことを指すんですか。
稲見 選択肢がたくさんあるってことでしょうね。選択肢の多さによって、自由かどうか決まると言えるかもしれません。選択肢が少ないと、将来の可能性が一本道だと、「レールの上に乗った人生」みたいになる。レールの上に乗れるだけでも、本当は幸せな人生かもしれないですけど。
それが、自分でちょっと寄り道したりできると、自由になれる。場合によっては空を飛べたり、海に潜ったりして移動できると、さらに自由度が上がったと私は考えますね。そのための選択肢を増やすのが、我々工学系の研究者の仕事かなと。
私にとってその選択肢の一つが、バーチャルリアリティなのかもしれません。自在化身体をやっているのも、身体の選択肢を増やしていくためということですね。
細田 そうですね。ぜひ学生の皆さんにもそれを実現していただきたいと思うし、そういう目標を持っている人が多くて頼もしい気がしています。
(第2話に続く)
自在化身体セミナー スピーカー情報
ゲスト: 細田守|《ほそだまもる》
映画監督
ホスト: 稲見 昌彦|《いなみまさひこ》
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授