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昔の愛人からのLINE


今、履歴を見たら、彼との最後のLINEは一年前だった。

数年前、彼はなかなかに難航したバツイチの婚活の末、若いお嫁さんを貰った。やっと子供に恵まれたと言っては、赤ちゃんの写真を嬉しそうに送ってきていた時期があった。
「子どもが可愛くてしかたない。よその子どもまで可愛く見えてきた」
「あなたがそんなことを言うようになるなんて、男の人はお父さんになったら変わるものね」
彼が四十代後半で儲けた子どもだから、成人するときは古希が近い父親になってしまう。でも彼の経済力では教育費の心配はまったく無いだろう。
その代わりとして、その子どもは代々続いてきた家を必ず継がなければならないという重責を背負うだろうけど。

そう、彼も家を継ぐことを人生の最大目標としなければならない宿命を背負った人だった。

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昔の話。
彼は誰もが知る有名企業の正社員、私は派遣社員として上司と部下の関係だった。
私は、それまで中小零細企業でしか働いたことがなかったので、安定している大企業の本社というのは会社の雰囲気がこんなにも違うということにちょっと戸惑っていた。
社屋や設備といった目に見えるものが立派なのはもちろん、正社員・派遣を含めてホワイトな待遇、行き届いた福利厚生、そして正社員の方は全て一流大学から更に就職活動を乗り越えて入ってきたエリート。
結果として、子にそれだけの教育を与えられる余裕のある文化・経済水準の高い家の子女が集まっていた。そのことは、普段に話す会話の教養・文化的素養の差からもうかがい知れた。
みんな人生に余裕があるような気がした。地方の田舎で生まれ育ち日本各地を仕事を求めて渡り歩いた自分とは住んできた世界の差を感じた。

「あなたが新しい派遣さん?」
そういって破顔した彼の年齢の割に屈託のない笑顔に、私はいっぺんに恋に落ちてしまった。
そして、彼は女性と見れば誰にでもそんな笑顔を見せることを知ったのはその後のことだ。
彼はとても女慣れしていた。遊び人という評判だった。若い頃からずいぶんたくさんの女性とお付き合いして来たんだろうな、という雰囲気を醸し出していた。
洗練された知性と育ちの良さとともに。

私は自分が彼に釣り合わないのが悔しくて、週末ごとに百貨店に行っては服を買い、靴を買い、コスメを買い、また有名な美容室で髪型を整えた。かなりの出費だった。
その結果は上々だった。見た目だけならちょっと遊んでみたい女になれただろう。
「こんなに可愛くなるなんて。入ってきたときと比べると別人みたい」と言ったのは誰だったか。
ただ、おかげで私の恋心は彼にも周囲にもあからさまなものになっていた。
もはや、恋をするために出社しているようなものだった。

彼は自分の私生活について会社ではあまり話さなかったが、彼が旧家の跡取り息子であることは皆が知っていた。
若い本命の、結婚を前提とした彼女がいることも噂されていた。
その上で、いろいろな女性と関係がありそうだ、ということも。

ある時、職場の女の子が趣味のバレエの発表会のチケットを職場で配っていたことがあった。皆で行こうという話になった。
でも当日になってみたら、来ていたのは彼と彼の彼女と私の三人だけだった。
発表会の後、三人で食事する流れになってしまった。微妙な雰囲気の中の食事だった。
彼の彼女は彼よりも一回りは若く、無邪気かつ傍若無人に振る舞っていた。私に対しても。
その時、彼の態度を見て「ああこれは、彼は本気で彼女に惚れてはいないのでは?」となんとなく感じてしまったのは、私の願望のせいだったかもしれない。
家のための結婚相手としての条件を満たしているから付き合っているのだろうな、そんな風に私はとらえてしまった。

しばらくして、何のきまぐれか彼が私を食事に誘うようになった。
初めて彼が私の部屋に来た時の胸の高鳴りは、この瞬間に死んでもいいと思えるほどだった。恋は表面上は報われたかのように見えた。
誕生日には、何でも好きなものを買ってあげると百貨店に行き、老舗の甘味処に連れてってくれて、流行りの映画を見て、おしゃれなイタリアンでサプライズケーキの演出までしてくれた。
私は今までちゃんと付き合った彼氏でもそこまで丁寧に、女の子が喜びそうな感じの誕生日デートをエスコートしてもらったことは無かった。でもそのくらいのことは、彼にとっては慣れたことだった。

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私は気がついていた。
彼は優しいけど、彼の気持ちは私には無い。
彼が私を抱くときは、いつも少し哀しい顔をして私を見おろして行為を行っていた、その表情を見れば、私に本気になっていないことは明らかだった。
憐れみのような情事でも私にとっては至福の時間であり、その刹那に生きる歓びを感じつつ日々は流れていった。
彼はラブホテルでは、私とのときに作ったのではない会員カードを使っていた。(そのことを隠そうともしなかった)万が一にも私を妊娠させることのないように、いつも避妊に気をつかっていた。
それでも私は気が狂いそうなくらい恋に溺れていた。抱かれれば抱かれるほど、想いはあふれていった。

「あの彼はあなたと結婚してはくれないよ」
と誰もが言った。そんなことは言われなくても解りきっていた。
それほど高望みなんてしていなかった。
ただもう少し、ほんの少しだけでも、彼の心を掴まえてみたかったのだ。
彼は一方的な優位に立って、恋する私を手慰みでかまってくれているだけなのが、たまらなく苦しかった。責め苦のように辛かった。
私は自分の行き場の無い濁流のような気持ちを、何処か正当な方向に放出はできないものかと、考えられるありとあらゆることを試みた。いろいろなことをしたので、人からは気が触れているように見えたかも知れない。
彼は彼で、いつももっと難しいことを悩んでいるように私には感じられた。

やがて、彼は彼女との結婚の準備にとりかかるようになった。
車を買い替えた。大事にしていたスポーツカーからファミリー用のワゴンに。
「こんな車、僕の趣味じゃないんだけどな。あいつが言うから仕方ない」
その頃もう彼は三十代後半になっていた。よっぽど結婚を先送りにしたかったんだな、と思った。彼の女遊びはそのせいだったのかもしれない。

私は悩み、誰彼かまわず愚痴りまくり、酒に溺れ、往生際悪く醜態を晒した挙げ句、職場を辞めた。
彼は結婚した。

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数年して、それまでメールでほんのときたま彼と連絡をしていたのを、LINEのIDの交換をするために一度だけ仕事帰りにマックで会った。(まだLINEが出始めでよく操作がわかってなかったので直接会ったのだ)
彼が離婚した、というのを聞いて「やっぱりな」と思った。
「気の強すぎる嫁だったんだもん」
「でもどうせあなたも浮気してたんでしょ?」
「そりゃしてたけど」
この女好きの男があんな我儘な小娘一人で満足するわけがないと予測はできたことだなぁ、と心の中で思った。
その頃私は現夫になる人と大恋愛中だったけど、彼も私ののろけ話を微笑ましそうに聞いてくれた。
「君は幸せなんだなぁ」

それから、たまにLINEで連絡が来るようになった。
どうしても家のために跡継ぎが必要なので婚活していること。
希望する女性の年齢は35歳までなので、難航していること。
彼がLINEしてくるのは少し愚痴をこぼしたいときだけだ。問題が何もない、もしくは順調に進んでる時は連絡が無い。
無事再婚して、子どもが産まれたときにも何の連絡も無かった。

私も自分の今の恋愛にかかりきりなので、あれほど好きだった男のLINEがいつしか片手間になっていた。
珍しく彼からLINEが来た、と思ったら単身赴任先で寂しくしてるからの暇つぶし目的だったりする。
私も昔、なんかお世話になったような気がするので、時間があれば相手をしてみたりしてた。

(あの頃は、私の恋心を憐れんでくれてありがとう)

そして最後のLINEは
「嫁がマッチングアプリをやっているみたいだ」
というもの。
あれだけたくさんの女と遊んできた男でも、逆に嫁にそういうことをされると心穏やかではないんだなぁ、と少し可笑しくなった。

あれからもう、彼からLINEは来てない。
私にLINEが来ないってことは、きっと幸せにやっているんだろう。
私は、あの頃あんなに激しく恋をしたのに、今では私の中の思い出の一つにしかなっていないことに、年月の流れと自分の心の移ろいやすさをしみじみ感じている。

2020.12.24 クリスマスイブの朝にて

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