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2019/8/02 「次は私の番だから。」

 20歳というのは、なんだか大切な年らしい。それは通過儀礼として成人するとかいうそれだけの意味ではなくて、自分はどんなものが好きで、嫌いで、どんな性格であるのか、所謂「アイデンティティ」というものがお団子のようにくるくるとまとまってくる、そんな時なのだ。

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 今年の1月に成人式があった。その際、小学校、中学校時代の担任から、当時の作文や掲示物がつまった紙袋を渡された。その中に当時小学6年生だった私からの手紙が入っていた。家に帰ると、私は家族に気づかれないようにこっそりと隣のおばあちゃん家へ上がり、畳の部屋で、そわそわしながらその手紙を開いたのだった。(こそこそとやりたいことがあると、なぜかいつも私はこの部屋に入ってしまう。ひんやりして心地よい部屋なのだ。)


 まぁ、内容としては以下の通り。


 出だしの一言から「あぁ、これは間違いなく私だ」と思うのだけれど、「本当に生きていますか?」という言葉から私の手紙は始まる。大丈夫、生きているぞ、この通り。ちょっとむずがゆくなりながらも私は当時の私と対面する。


 その頃、友人たちとハマっていた漫画や、流行っていたアイドルのこと。そして、好きな人のこと。(あえて名前を出さないで書いているところがなんとも憎たらしい。)ご丁寧に教室の席まで書いてあって、当時よく私をからかってきた男の子に対する愚痴だとか、仲のいい女の子たちが書き足した私へのメッセージだとか、いろんなものが入り混じって、あふれて、笑っている当時の私の顔が浮かんできた。その中に、「ギターは弾けるようになりましたか。」という言葉があって、私は少し、はっとした。


 小学6年生の私は歌うことが好きだった。しかし、それに対するコンプレックスの方が本当に大きくて、カラオケも音楽の時間も人前で歌うということが本当に嫌だった。歌うことが好きだということはおろか、音楽が好きなことさえも必死で隠そうとしていた。

 だから当時の私がギターを弾くだなんてこと、考えてもいないだろうと思っていた。そんな私が「ギターは弾けるようになりましたか。」と聞いている。これはきっと、当時の私が未来の自分へ、「今の私はできなくても、あなたなら大丈夫でしょう?」と期待を残しているのではないかと思えた。「これはやらなくっちゃ当時の私に申し訳ない」と思い立ち、私は今ギターを弾いている。(弾けるとは言っていないぞ、断じて。)


 それからの内容は、その当時の自戒のようなものだった。大切にできていなかったこと、逃げてしまっていたこと、それを「あなたは頑張ってね」と託された。

 それから最後に、「あなたが楽しいと思えるならそれでいいと思うから。大丈夫だよ。楽しく生きてね。」という言葉で締めくくられていた。


 面白いものだなと思う。小学6年生ってこんな感じだったかなぁと不思議なのだ。確実に当時の自分は何も考えずに書いているのだが、それが無意識に核心をついていて、今の私に突き刺さる。

 私が楽しいと思えることはなんだろう、そんな生き方ってどんな生き方だろう。少しずつ私の好きなものが丸く丸くまとまっていって、私という存在になっていることを感じる今日この頃。あの頃の私があこがれてくれるほどに、楽しく生きてみたい。きっと、大丈夫なのだ。

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