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2019/7/25 「ねぇ、神様。」

 今日はとても心臓がうるさくて、ぞわぞわする。たまにそういう日があって、「今日はそういう日なんだ」と自覚できるようになっただけまだいいのだろうけれど、こんな日は理由もなく死にたくて仕方がなくなる。

そしてこんな日は、「何故あの人じゃなくて私が生きているんだ」と思ってしまう。

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 数年前、大切な人を病気で亡くした。

 テレビドラマのようだった。病気になった女の子のよくあるヒューマンストーリー。ふざけるなよと思う。人の生き方があんなにも簡易的で感動的であるものか。それから私は死を美化することを嫌った。

 人の死を出汁にして自分の悲しみの題材にする人間は一定数存在する。そういう人を見ていると、やるせなかった。そんなことを思いながらも、私自身が先述したように、彼女の死を美化していることに私は気づいている。こんな文章を書いていることもそうだ。どんな人でも、死んでしまうと、その存在が美化される。尊いものであるかのように人はその死を扱う。

 

 死んだ人間をどう扱おうと何も言えないのかもしれないが、私は誰かの悲しみの材料にされるのはごめんだ。私はこんなにも身勝手で、醜くて、プライドの高い、面倒な人間だ。そんな人間を勝手に「見守ってくれている」だの、「天国で幸せに暮らしている」だの言われたくはない。

 私を勝手に語ってくれるな。この汚い私は汚いままで、何も尊くはないのだ。こんなに死にたがっている人間を生かして、あんなにも生きたがっていた人間を殺すこの世界が憎い。あの人に私の命をあげた方が、きっと幸せだっただろうにと、何度も思ってしまう。

 それは考えてもどうしようもないことだと分かっている。結局、私は逃げたいだけなのだ。


 ヨハンナ・シュピリの「ハイジ」の一節を思い出す。すべての苦しみの意味を悟ったハイジの言葉だ。

「きっと、これも神様の思し召しなのよ。神様はその先をわかったうえで苦しみを与えていて、その先にはきっといいことがあるんだわ。」

じゃあ、私のこの苦しみは、どうなるためにあるのだろうか。

ねぇ、神様。

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