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2021/2/24「回顧録」


 適当に生きている。


 ここ最近は、自分の生き方の不真面目さを痛感することが多い。暗い方向にばかり思考を進め、できる努力から目をそらして、楽をしているだけなんだと思い知る。


 どうやら4月から私は働くらしい。
 それを決めたのは自分だけれど、いまいち実感も湧かなくて、「普通」のレールから反れなくてよかったとだけ思っている。


 最後だから、と人に会うことも増えた。このような状況だから大人数は避けているけれど、大学4年間で知り合った数少ない友人たちと、改めて話をすることがあった。「最後だから」と人に会うたび、少し皮肉なことを考えてしまう。まるで別れるために人に会っているようだなと。それは死ぬために生きるようなもので、一つ一つ目の前に現れる「やるべきこと」を終わらせるたびに、私はいつ本編が始まるのだろうかと思っている。序章はとっくに終わっているはずなのに。


 こうやって他人事のように自分の時間を費やしている私は、死ぬ時までこうやって実感なく過ごすつもりだろうか。本当に、人間は何のために生きているのだろうね。「それを見つけるのは自分だよ」と言われてしまえばそれまでだけれど。


 久しぶりにインスタグラムに手を出した。3年前くらいにアカウントだけ作っていたけれど大して投稿することもなく、一時期は他人の生活ばかり溢れ出す世界が鬱陶しくて、アプリを消していた。なぜ使ってみようという気になったのかよくわからないけど、他者に呑み込まれても大丈夫なくらいに、私は自分を保てるようになってきたのかもしれない。そしてさらには、もう少し自分の生活をさらけ出してもいいのだと思っているのかもしれない。いつか言われた「もっと自分を出していいんだよ」という言葉に、長い時間をかけながら、私は少しずつ答えようとしている。


 心から「恩師」だと言いたい人ができた。いつのまにか私にとって偉大な人になっていた。ゆるりゆるりと少しだけ時間にルーズで、一緒にドイツ語を訳せば「そろそろ帰る?」なんて笑いながら言う人だ。最初に会った時に私が言った言葉をいつの間にか心の内にとどめていて、私でさえ忘れてしまっていたのに、ふとした瞬間に言葉にする。もやもやと存在していても言葉にできない感情を、核心をついたように言語化できる。教授はそんな人だった。いつでも私に優しいまなざしと期待をかけ、存在で励ましてくれた。


 きっと先生にとって私は学生の一人にすぎないだろうし、先述したようなことを言えば彼は「そんなに大層なことをしたおぼえはない」と笑いながら言うのだろう。それでも、私は先生の言葉に救われてきた。それは偶然だ。偶発的で非連続的に起こる「出会い」だ。「ドラマ」だ。自分が研究主題としてきた「出会い」という情感の交わりを、私はまさに先生との間に感じてきたはずだ。


 たった20年。きっとそうだ。これからもっと私は大きくなって羽ばたくことができるはずだ。自分の足を動かすことが出来るはずだ。そしたら、いまだ感じたことのない気持ちを見つけたり、そしてそれを言語化できるような、彼みたいな人間にきっと私もなれるだろう。彼がそうしてくれたように、私も他者を優しくまなざし、期待をかけるのだ。

 いつか訪れるであろう、結末のために。

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