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2020/06/10「生きることは正義か」

  生きることは正義だろうか。

 「死ぬこと以外、かすり傷」だなんて、笑いながら姉と話すことがある。別に本当にかすり傷だというつもりで言っているわけではなくて、どんなに大きな挫折をしても、どうにかなるさというつもりで私たちは言葉をかけることがある。



 今日家に迷い込んできたイモリを助けた。夕食の準備をしている時に、ゴキブリ〇イ〇イにつかまっているイモリを発見し、「ごめんよ~~がんばれ~~~」と言いながら1時間ほど格闘した。ホイホイの粘着力の強さに何度か負けそうになったが、オイルを使うといいらしい。何とかイモリ氏を取り外すことができた。助ける時に体を触ってしまったからか、少し弱っているようにも思えたが、イモリ氏はひょいと逃げていった。「助けたからには少し長生きしてくれよ」と私は心の中で呟いた。



 生きものにとって生きながらえることは最重要課題だ。ホッブズが生命保存のために自然権を主張したように、歴史的に考えても私たちは生きることに希望を見いだしてきた。反対に死ぬことには恐怖を覚えるし、人が死ぬのを見て悲しみを覚える。


 生きることは正義かと問うた。

 この疑問は、ネットサーフィン中に「何があっても死んではならない、死んでしまったら終わりだよ。」という言葉を見かけたことから生まれた。

 死んではならないのだろうか。自ら死を選択することは間違っているのだろうか。別に安楽死万歳と言いたいわけではないし、生きることに希望を見いだせないわけではない。それでも、どこかで賛同できない自分がいて、それがぐるぐると私の思考を掻き立てて止まない。苦しまずに死ぬ選択が許されたとして、それを選択することは正義に反するのだろうか。生まれたからには生きねばならないのだろうか。自ら死んでいく人は不幸なのだろうか。考え出すと止まらなくて、否定も肯定もできずに終着点のない思考が襲い掛かる。昔はもっと単純だった気がするのにな。



 小学生の頃だったか、友人の男の子に「僕なんかいない方がいいんだ、死んでしまいたい」だなんて手紙を受け取ったことがある。自傷行為をする男の子だった。彼はとても博識で、優秀な人で、魅力的だった。私は当時、彼のことを好いていて、その言葉に胸が苦しくなった。「死なないで。私、あなたがいなくなったら悲しいよ。」と、返事を書いた。

 この記憶が今になって甦るのは、今の私にはこの返答ができないからだ。「死なないで」の一言が正しいのか、今の私にはわからない。死にたい人間に「死なないで、生きて。」だなんてそんな無責任な言葉を投げられない。



 月に1000人以上が自死している。交通事故の死亡者数よりも多いと、いつだったか大学の講義で耳にした。きっと潜在的な自死予備軍はその何倍もの数だろう。私の身近にいるかもしれないその人々に、私はなんと声をかけるべきだろうか。そしてまた、私はなんと声をかけられたいのだろうか。思考の終わりが見えない。

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