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「広島焼き」という呼称について余所者が真剣に考えてみた ⑥エピローグ「結局わかりませんでした」

結局よくわからなかった

だらだらと論考ともいえないような論考を積み重ねてきて、結局私は何も分からなかったのである。「広島焼き」という呼称に怒っている人々が「なぜ怒っているか」は、結局完全には理解できなかったのだ。

書く前も書いている途中も、多くの広島在住の方、元在住の方、近隣の方に、様々な見解をお寄せいただいた。

「本気で本流だと思っている人たちがいる」

「どうしても亜流扱いされたくない」

「他所で付けられた新しい名称に違和感がある」

「戦火のイメージと重なる」

「大阪に対するライバル意識」

「他所で『あれはお好み焼きではない』とされることに対する防衛」

といったそれぞれに対して、複数の意見があった。
逆に言えば、みんなそれぞれ勝手に違うことを言っていて、特に統一見解的なものは無かったとも言える。決定的な何かというものは無いのかもしれない。
そういう意味では、ある方が言っていた、

「特にこれという理由があるというより、何となくそうなっている」

という曖昧すぎる理由が、実は最も的を射ているのかもしれない。
一つ一つの理由はそれぞれに反例があり、決して決定的なものは無いが、そういったもろもろの小さな違和感が積み重なった結果、許容のダムを超えてしまったということだ。

お好み焼き食べに行こうぜ!

私に唯一主張らしきものがあるとするならばそれは前回書いた、
「お好み焼きの発祥からの歴史や全国的な広がりを俯瞰すると、怒る理由のかなりの部分が消滅してしまうのではないか」
という仮説である。言うなればダムから適宜放水するようなものか。
誤解してほしく無いのだが、「だから怒るのはやめたまえ」などと言うつもりは1ミリも無い。
怒っている人に対して「怒るほどのことではない」となだめすかすほど失礼なことも無い。

プロローグにはっきり書いた通り、私はすでに「広島焼き」という呼称に怒る人たちがいることを知っている。だから今後この言葉は少なくとも公然とは使わない。
そして私はただ単に「なぜ怒るのか、という謎解き」への好奇心だけでこの一連の文章を書いているのだ。要約すれば数百字で済むような内容をダラダラ一万字を超えてまだ書き進めているのは、その思考過程をトレースしているにすぎない。

だから私は、世の中に何かを訴えるつもりはないし、ましてや誰かを説得する気も毛頭ない。
ただ、もしこの一連の文章を読んで、だれかが今すぐにでもお好み焼きを食べたくなったとしたら、それこそが私の本望である。

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