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言葉にできなくてもいいから、なかったことにしないこと。

子どもや学生への質問、スポーツ選手や相撲のインタビューであまり好きではないのが「◯◯で良かったです」という感想。あれは本人からの主体的な発話ではなく、「聞く → 答えねばならない」という関係性の圧力から生まれる空虚な回答に思える。一方的に質問をして、空虚な “それっぽい” 回答を得て満足する関係は小学校や中学校でのそれを思い起こさせる。読書感想文にも同じ匂いがする。ぼくの偏見100%ですけれど。学校のあの空気、大嫌いだったんです。今でも嫌いだけど。

さらに好きではないのが本来は「◯◯で」が主軸であるかもしれないのに、「良かったです」と結論めいたものに軸足があるように見えてしまうこと。良かったことしか良かったと認められないような窮屈な世界にぼくたちは生きていない。「◯◯だった」で終わってもいいのだ。他者から見たら断片的かもしれないが、それこそが本人が獲得した手触りかもしれないから。良し悪しだけで語る物語は痩せすぎている。そもそも良かったかどうかと判断すべきことでもないかもしれない。幼い頃にかけられた「良かったかどうか感想をいいなさい」の呪いからぼくたちはもう解けてもいいですよね。大人なんだから。

「◯◯で良かった」といった短絡的な評価ではなく、「◯◯だった」という手触りがいくつも集まりモザイクのような何かを共有できる方が豊かなんじゃないだろうか。ぼくがTwitterを好むのはそんな特徴があるからです。

何でこんなことをつらつら書いたかというと、こちらのツイートを見て「本当にそうだなあ」と思ったからです。

ネット上で(自分が訳した本にかぎらず)読者のレビューを見ていると、「本は読んだら理解しなければならない」と思っている人がとても多いのだなと感じる。自分としては、別にわからなくてもいいじゃないか、読んでいるあいだに、なにか考えたり感じたりすればそれでいいじゃないか、と思うのだが。
理解しなければいけない、と思っているから、読んでも理解できなかったときは「私には難しかったです」とか、「書き方(訳し方)が悪い」とか、そういう感想が出てくる。わからないものはわからないまま受け入れればいいのに、と思うのだが、なかなかそうもいかないらしい。

本当にそうだなあと思います。空虚な感想より、自分の手触りを大切にした方がいい。たとえ言葉にできなくても。言葉にできなくてもいいから、なかったことにしないこと。大切に取っておくこと。言葉にできないそれらが自分の輪郭になっていくから。ぼくはそう思っています。

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哲学者・野矢茂樹による『ここにないもの』はぼくが大好きな本ですが、とても印象的なシーンがあります。「語りえないもの」について語っています。よかったら読んでみてください。とても面白い本です。

「ことばで言い表わしえないもの ―〈語りえないもの〉って言ってもいいけど ー 語りえないものと語りうるものと、きっちり二つに分かれるんじゃなくて、何かをことばで言い表すと、そこには何か言い表しきれないもどかしさみたいなものがつきまとうことがある」
「うん。なんて言っていいか、よくわかんない。少し、言えるけど、少ししか言えないことって、ある」
「ミューの場合には、聞いてる方がよっぽどもどかしさがあるよな」
「そうでしょうか」
「なにあらたまってんのよ。それでさ、そのもどかしさっていうのは、そこまでことばで言い表したからこそ、姿を現したものなわけだ。空の色を〈青〉ってことばで言い表そうとするから、それじゃあ、言いきれないものが見えてくる。で、そいつはずっとそのまま言い表せないのかっていうと、たぶんそうじゃない。(略)ことばは、何かを語ることで、語り切れていないものを影のように差し出してくる」

『ここにないもの』野矢茂樹


関連note

大人になれば 34『春と初夏・ここにないもの・ことば』

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