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大人になれば 34『春と初夏・ここにないもの・ことば』

春まっさかりですね。
いや、初夏が始まりますねと言うべきか。
しょかとつにゅう。
五捨六入に似ている。

春と初夏の境い目はどこにあるんだろう。
林檎の花が咲いて、田圃の水が張られて、かえるの大合唱が始まったら初夏なんだろうか。

でも、春の気配はまだそこかしこにあって。
大気が霞んでいる朝の景色や、昼のまどろむ空気や。朝の鳥の声が変わったり、菜の花の群生を見たり、そういえばとnoteの『一丁目のテーマ』を聴きたくなってCDを引っ張り出したり。春だなあと思う。

春と初夏。
たぶん、名前はあっても境い目はない。
現象はあっても境い目はない。たぶん。

大人と子どもの境い目はどこにあるんだろう。
恋人と友人の境い目は。
賛成と反対の境目は。
夜と朝の境目は。
始まりと終わりの境い目はどこにあるんだろう。

世界は現象と名前であふれていて。
境い目だけがない。
ぼくたちはその中を行きつ戻りつしている。

素敵な本と出会った。
読んでいる間、文字を追っているのではなく、ずっと会話に耳を澄ましているような。そんな本がときおりある。
読んでいる間、友人の顔が浮かんできて、あの人はなんて言うだろうな、話したいなと思う。
そんな本と出会うと嬉しい。

ぼくにとってトーベ・ヤンソンの『ムーミン・シリーズ』はその代表格で、いつも本を読む度にあの森で耳を傾けているような気持ちになる。ちろちろと小川が流れていて、森がさわさわと囁いていて、ちょっと不穏で。
小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』も本の中でじっと耳を澄ませている感触だった。数奇な運命を辿るチェスプレイヤーの主人公の傍らで、ぼくは物語に耳を傾けていた。静かに、音を立てることなく。
サン=テグジュペリ『星の王子さま』や梨木香歩の『西の魔女が死んだ』も。ぼくはそれらの本を開くたびに耳を澄ませる。そこで語られる言葉と声に。

『ここにないもの』(文・野矢茂樹、絵・植田真)もそんな本だった。本屋を散策していたときに、表紙のイラストがふと目に留まって。
ペンで線描のように描かれた大きな草や丘や大気。小人のような二人。一人は草の葉の上に乗って川を眺め、一人は草で作った小舟を漕いでいる。
まるでムーミンの世界みたいだと手に取った。

目次にはこんなタイトルが並んでいる。

一、「人生は無意味だ」って、どういう意味なのだろう
二、十年前のぼくも、ぼくなんだろうか
三、ことばで言い表せないもの
四、自分の死を想像することはできるか
五、未来は存在しない?

著者は哲学者らしいのだけど、ぼくはよく知らない。
でも冒頭から惹きこまれる。
腰かけ岩に座りながら、朝にお茶を飲みながら話すエプシロンとミューという二人のお喋りに。
ぼくは豊かな気分で彼らのお喋りに耳を傾ける。

「死ぬのってさ、なんでこわいんだろう?」
「この空の色は何色だと思う?」

彼らは天気について話すように世界について話す。
小川の流れに手をさしこむようにして世界にふれる。

そこにあるのは言葉だ。
言葉で世界の姿を探ろうとする姿勢。

「ことばで言い表わしえないもの —〈語りえないもの〉って言ってもいいけど— 語りえないものと語りうるものと、きっちり二つに分かれるんじゃなくて、何かをことばで言い表すと、そこには何か言い表しきれないもどかしさみたいなものがつきまとうことがある」
「うん。なんて言っていいか、よくわかんない。少し、言えるけど、少ししか言えないことって、ある」
「ミューの場合には、聞いてる方がよっぽどもどかしさがあるよな」
「そうでしょうか」
「なにあらたまってんのよ。それでさ、そのもどかしさっていうのは、そこまでことばで言い表したからこそ、姿を現したものなわけだ。空の色を〈青〉ってことばで言い表そうとするから、それじゃあ、言いきれないものが見えてくる。で、そいつはずっとそのまま言い表せないのかっていうと、たぶんそうじゃない。(略)ことばは、何かを語ることで、語り切れていないものを影のように差し出してくる」

ぼくらは決して世界そのものに追いつけない。
Y=1/Xの双曲線のように。
それはゼロに限りなく近づくが、決して交わることがない。
無限遠に遠ざかる線と、限りなく近づこうとする曲線。

ぼくはそのもどかしさの中に手触りを得る。
それこそがぼくが獲得した世界だからだ。

空の色を青だけで言い表せないと思ったときに得たあの感じがぼくのものだ。雨上がりの雲が光って、雲の切れ間から光の矢が射して、空そのものが光になったような。あの空をなんと言えばいいのか。
いくつもの夜に時おり訪れるあのざわめいた気持ちを、noteの『一丁目のテーマ』を聴くとじっとしていられなくなるあの感じをなんて言えば。

「ことばをあてがうことで、そこから何かがはみ出てるってことが感じられてくる」

ことばが世界を測るものさしであるならば、ぼくはぼくのものさしを手に入れたい。
ぼくの目にうつる世界がぼくの「現象」で「現れ」であるならば、ぼくはそれらを一つひとつ丁寧に測って、その奥にある「ことばで言い表せないもの」を知りたい。
きっとそこには思いもよらないこと、思いもよらない人、思いもよらないものたちへの予感であふれている。まだ見たことのない景色が。
ぼくは久しぶりにわくわくしてしまった。だって、世界はまだこんなにも知らないことであふれている。

最後に、地味だけれどこの本でとても気に入ったフレーズを。
ぼくはぼくの「感じ」を信じることを大切にしよう。たぶん、全てはそこから始まるのだ。きっと。

「少し分かる」
ミューは川面から目を離し、振り返ってエプシロンをみつめた。
「でも、あまりぼくの感じじゃない」
「んじゃ、どういう感じなんだよ」
「分かんないけど」
エプシロンは小石を拾って投げた。
「理屈は分かっても気分出てないってか?」
「そう」
小さく魚のはねる音がした。

執筆:2015年5月3日

『大人になれば』について
このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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