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「怒り」とは。映画『ニトラム / NITRAM』

所属している制作ユニットの朝礼では何かしらのお題が回ってきて、当番がみんなに話すという施策をやっています。そのテーマで全員が話し終えると次のテーマに移行します。

お題は『おすすめの飲食店』とか『自分が大切にしていること』とか様々ですが、今回は『最近怒っていること』でした。ちょっと珍しいテーマです。

「PS5が欲しいのに転売ヤーのせいで買えない」「子どもの予防接種の予約が全然取れなくて腹がたつ」など人それぞれの怒りを話してくれました。

そして、今朝はぼくが当番だったのですが、これが難しい。怒っていないのかというとそんなことはなくて、こう見えてぼくはキレやすい人間です。すぐ頭に血が上ります。でも、振り返って考えるに、それは反射的な怒りで、あまり深掘りしても面白くなかった。熱い鉄板に触って「アッツ!」と言っているようなもので、それを喋ってもなあ…と思いました。(キレやすいということは、すごい猫舌なのかもしれません)

ただ、「怒り」ということを改めて考えるとそこには幾つかの階層があるな…と思いました。自分にとって新鮮な発見だったので(そもそも「怒り」についてあまり考えたことがない)、朝礼ではそれを発表しました。


「怒り」の区分

ざっと考えて、大きく3つに区分できるなと思いました。

  1. 反射としての怒り

  2. 嫌悪感としての怒り

  3. 言語化できない不可分な感情


1. 反射としての怒り

前述したように熱い鉄板に触って「アッツ!」と言っているようなもの。本能的な感情に近い。闘争本能などもここに隣接しているような気分。(本当のことは知りません。自分の勝手な妄想です)

2. 嫌悪感としての怒り

「美意識とは嫌悪感の集積である」というようなことを伊丹十三がエッセイ で書いていて、中学時代にそれを読んでからいつもうっすらと頭に残っています。
ぼくはけっこう社会的な怒りを覚えるほうですが、「社会的な怒りは嫌悪感の集積である」とも言えるかもなあ…と思いました。社会的に行われる不正や不公平、差別、ごまかし、嘘、マウント、虚栄が嫌いです。どちらかというと生理的な嫌悪感です。それが社会的な怒りに繋がりやすい。
ただ、この生理的な嫌悪感からくる怒りは「正義」にも繋がりやすく、注意が必要だなあと思っています。社会的な不正や不公平にぼくは怒りを表明する方ですが、ぼくの場合、その源泉は生理的な嫌悪感であって、正義感からではない。ここは人によって違うと思います。正義感から怒りを覚える人もいてもおかしくない。ただ、ぼくの場合は違うので、忘れないように気をつけたいと思っています。怒りはすぐ正義に転換されやすいので。

3. 言語化できない不可分な感情

この説明が難しいのですが、それは怒り単体ではなく、色々なカオスが不可分に混在した領域なんだろうな…と思っています。本人も他者も説明できないけれど、「それはそこにある」というものなんだろうと。消し去れるものでもなく。「そこにある」と認めて上手くつきあっていくしかないし、「そんなものはない」と無理やりねじ曲げてしまうと本人にも自覚できない負荷がかかりそうです。

ちょうど昨日観た『ニトラム / NITRAM』がそういう映画でした。

タスマニアで実際に起きた無差別銃乱射事件(ポート・アーサー事件)を題材にしたこの映画、殺人描写はほぼ描かれないのに上映の112分ひたすら怖かったです。地下室に水がじわじわと浸水してくるように怖い。そして、怖いと思っている自分が悲しかった。

35人もの人を無差別に射殺したマーティン・ブライアントは仮釈放なしの35回の終身刑を宣告され、今も服役中です。そして、今も無差別殺人の本当の理由はわかっていません。

万人にお薦めという映画ではありませんが、ぼくはとてもズシンときました。たぶんしばらく尾を引くと思いますが、その重みや悲しみ、怖さ、分からなさ、狂気、孤独などが言語化できないのが印象的でした。


破壊と慈愛

無差別殺人をする人間なんて特異な例で自分とは関係ないと思うことはできますが、一概には言えないとぼくは思っています。

たとえば、宮崎駿は「人間なんて滅べばいいと思っている」的な発言をインタビューでよくしています。もちろん文脈があってこその発言ですが、恐らくこれはメタファーでもパフォーマンスでもありません。たぶん、本当にそう思っている。と同時に、「生きろ」「いのちは闇の中のまたたく光だ」と心血を注いで描く宮崎駿もいるわけで。矛盾した両極を手放さない。矛盾を抱えて生きていくのが宮崎駿という人間像だったりします。

破壊と慈愛が混在しているのが人間の不可解かつ面白いところなんだろうな…と思いつつ、「怒り」という本能的かつ原始的な生理はそれらのカオスの中に混ざって本当の姿が見えない。喜びや悲しみの方がまだ捉えやすい。

というのが今回改めて考えてみたぼくの「怒り」でした。なかなか興味深いテーマでしたが、朝礼で話すことではなかったなあ…と話し終えて思いました。

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