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"女は愛嬌"と教え込まれたからこそ、わかること

女は愛嬌

男性が女性を都合よく従わせるために作られた言葉か、
権力を持つことを認められない女性達が、それでも自分達の行動に価値を見出すために作られた言葉か、

この言葉が死語になりつつある令和の時代では、この言葉が生まれた真意はわからない。

男女平等、個人の多様性が叫ばれる今、こんな言葉を使う若者はまずいない。
もし仮にそんな教えをする大人たちは老害として扱われる。


でも、少なくとも私は平成ど真ん中に生まれながらも、この教えの元で育てられた。

そして、時代に逆行した教えを幼い頃から刷り込まれてきたからこそ思うことがある。

それは”女は愛嬌”は、半分本当で半分嘘だということ。

ちなみに私はこの言葉が嫌いだ。
”女は愛嬌”そう信じることで、自分の価値や能力で戦うことを避けているように感じるから。
等身大の自分で戦わないことに理由をつけているようで、逃げている感じがする。性根がスポ根である私はどうしても受け入れられないのだ。

でも、これだけこの言葉に否定的であるが、同時にこの言葉がどれほど偉大であるかもわかっている。

それは、「女は男に守られなければいけない生き物である」と周囲の人間達から嫌と言うほど刷り込まれてきたからだ。

私は男女平等だとか、多様性だとかそういった言葉は好きだ。
でも現実的には(というか生物学的には)人間が生命活動を継げるためには、やはり女は男に守られなければいけない時があるとも思ってしまう。
そういったことを踏まえると、完全に男女が平等になる未来なんて綺麗事でしかないとも思う。

女は生命活動の面では男に守られる必要があり、大抵の場合その男の質は高ければ高いほど良いだろう。

でもそんな質の良い男は引くて数多。
そして、質が良い男性というものは大抵"いい男"としてのプライドを持っている。

だから必要になる、愛嬌が。

にこにこと笑い『一緒にいる幸せな未来』を想像させることができる愛嬌と、"女は愛嬌"と割り切って、男性を立てることができる精神を持つ女性ほど、そう言った質の良い男性に好かれる傾向がある。

だから、女性に幸せな人生を送ってほしければ
"女は愛嬌"だと教え込むことは理屈としては正しい。



でもやっぱり、嘘だとも思う。


そもそも、この時代の男性達はにこにこと自分のことを褒めてくれる女性を本当に求めているのだろうか。
もし本当にそう思いこの言葉を使っているのであれば、それは男性を馬鹿にしている。
現代の恋愛市場はそんなに甘いものじゃない。

そもそもお見合いだとか、紹介だとかで生涯を共にする相手を決めていた時代とは今は状況が違うのだ。
今は良くも悪くも選択肢が広すぎる。

選択肢が広まっているということは、それだけ理想を追い求めやすくなっているということ。
「もっといい人がいる」と思ってしまうからこそ、妥協で人を愛することが難しい。

そうなった時、愛嬌だけで戦おうとしている人に勝ち目はあるのだろうか。
少なくとも昔より勝率は低いと思う。

時代が変わって、今は愛嬌だけでは戦えない時代になったのだ。

そしてもう一つ

”結婚しなくても幸せになれる時代”になったからこそ、自分の幸せは自分にかかっている。

自由とは一見いいことに見えて、実は怖いこと。
誰にも何にも縛られない代わりに、自分の身は自分で守るしかない。自分に降りかかる不幸は全て一人で受け止めるしかない。

そんな中で、”女は愛嬌”を合言葉に「自分以外の誰かが自分を幸せにしてくれる、守ってくれる」なんて教えを信じていて、本当に幸せになれるのだろうか。

とてつもなく突出した何かを持っている人であれば、そんな受け身の考えでも幸せにしてくれる相手は現れ、文字通り幸せになれると思う。

でも、時代にならって少しでも自由を主張するのであれば、必要なものは人に好かれるための愛嬌ではなく、それ相応に自律していく覚悟だ。


死後となる言葉には必ず理由があると思う。
"女は愛嬌"は理解できる部分もあるが、令和ではやはり死後だ。
かと言って、先人達の考えは生物が生命活動を繋げるということにおいては的を得ている。完全に間違いと言うわけではない。


"愛嬌と自律"
もしかしたら、この二刀流が令和では無敵なのかもしれませんね。

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