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僕は生きるを選ぶ

余命1年。

僕が置かれている今の現状で、もしこう宣告されたとしたら。

僕は残りの1年間をどう過ごすだろう。

まず真っ先に考えることは家族の存在だ。

妻と愛犬クマジ、両親に弟。そしてこの人生で出会った仲間たちにも会っておきたい。

あとは何を思うだろう?

目先だけの衝動で行動することはしないだろう。

つまり、お金のためや名誉のためなんて考えるスペースなんて必要なくなるはずだ。

好きなように生きるといっても、暴飲暴食をして過ごすだろうか?

宣告された初めの数日はそうするかもしれない。

しかし数週間も経てば、真剣に残りの時間について考えるはずだ。

まだ行ってない場所に行くか、体験したことないことに挑戦するのか?

もちろんそれらもするだろう。

しかしもっと深く考えてみた。

残り1年の命。

おそらく僕はこうすると思う。

この絶好の機会を使って、可能性は自分で広げられることを証明してやろうと。

これは前向きでポジティブな意見とも違う。

どちらかと言えば、開き直りからの挑戦なのではないかと思う。

言われるままに死ぬことを受け入れてたまるか!!

俺はもっと生きてやる!!

そういった境地に入るのではないかと思うんだ。

それを実行に移す僕はどういう毎日を過ごすだろう。

口に入れるものを意識し、ほどよい運動を習慣にし、発する言葉に注意し、常に自分の中の意識に注意する習慣を持って過ごすことになるのだと思う。

関わる人との協調性を意識し、笑顔を習慣にし、否定ではなく肯定する側を選ぶことだろう。

失敗をした人に勇気を与え、挑戦する人を応援し、どんな結果になっても生きている喜びを説くだろう。

そう、僕の目標は生きることなんだ。

そのためには関わるであろうすべての要因をプラスに変えていかなければならない。

衰退ではなく向上させなくてはならないのだ。

目の前に触れるすべての要素が僕自身であり、その行為がすべて自分へ返ってくる。

それは表面的な部分のことではなく、自分の中の深くにある根本的な部分だ。

その部分にウソをつくことはできない。

『お天道様は見ている』というあれのことだ。

今やっていることが自分の深い部分にウソがなく、やりたいことなのであればそれが幸せなのだと思う。

例えうまくいってない時期だとしても、自分にウソがないのなら素晴らしいことではないか。

逆にうまくいっているように見えても、お天道様は見ているのだ。本当の部分を。

すると大切な生き方が見えてくる。

答えは外にはないということがわかると思う。

どんなに着飾っても通用しないんだ。

そしてこれは眉間にシワを寄せて考えることなんかじゃない。

とてもシンプルなことなんだ。

僕は気持ちよく生きたいだけなんだ。

それだけで十分だってことさ。

そして、十分を知ると…。。。


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