思い込み(常識)を日常から説明
愛犬のクマジと散歩をするのが日課だ。
午前中と夕方の2回、近所にある宍道湖を散歩する。
この季節は春を予感させる風を香りながら、宍道湖に沈むサンセットを眺められる最高の時間となる。
クマジと散歩をしていると、宍道湖公園で子供を連れた親子と遭遇する。
子供は『わんわん!』と言って近づいてくる。
一瞬にして動物園状態になるというわけだ。
まぁそれは仕方がないことだし、とくに急いでない僕らはそれに付き合うことになる。
ここで僕は思うことがある。
子供が『わんわん!』と言って近づく素振りをした時に、親がとる行動には2つのパターンがあるのだ。
1つ目は、『そうだよ、わんわん可愛いね~』と言って近くで見たり、触ってもいいか確認してくれる。
そしてこれがもっとも多いパターンにはなるのだが。
2つ目は、『危ないからね~』と言って子供をクマジから遠ざけるというパターンだ。
その親自体が犬を苦手なのだろう。
お気付きだろうか?
1パターン目の子供は、犬を可愛いと思い込んで大人になっていく。
2パターン目の子供は、犬は危険だと思い込んで大人になっていくことになるのだ。
僕は親の教育の話をしているのではない。
そうではなく、人間の思い込み(常識)についてを説いている。
つまりこういうことだ。
僕らが常識だと思い込んでいることのキッカケなんて、とても些細な事であり、それが真実なんかではないんだよ!ってこと。
小さい頃も含め、今までのどこかの些細なタイミングで植え付けられただけに過ぎない。
妄想だってことなのさ。
だからこそ妄想の枠の中で生きることは、ある種の奴隷となってしまうんだ。
そのカゴを見破らなくてはならない。
そして自由に、無限の可能性の世界を飛び回るべきなんだ。
時空という意味では、僕らはすでに幸せの中に存在している。
あとは自分で作り上げたそのカゴを理解するだけでいい。
そのカゴから飛び出すことさえできれば、幸せに気づくことができる。
同じ世界に居ながら、全く違う次元に生きている、と僕が言うのはこのことなんだ。
見た目でわかるものではない。
自分の中でしか気づけない。
物を多く所有している人が”それ”というわけではない。
もちろん所有物がなく身軽な人が”それ”だとも限らない。
本人しか気づけないことなんだ。
幸せは自分の中にしか存在しないんだ。
手探りながらも、”それ”を求めるためには瞑想をオススメする。
『〇〇じゃないといけない』から解放される時間を味わうという意味では効果があるだろう。
しかしもちろん、瞑想すらも必要事項ではないのだが…。
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