【エッセイ】砕けたマグカップを見つめている
家では1つのマグカップであらゆる飲み物を飲んでいる。朝、本を読みながら冷やしたハーブティーを飲む。5分の1ほど残したコップをローテーブルに置くと、落ちて、持ち手の部分が割れた。気づいて「わ」と言った。お茶はカーペットに溜まった。ちょうどこれくらいの刹那さ、呆気なさ。人の死というのも
カーペットは気づいたら撥水していた水分を吸い込んでいた。天気もいいのでこれはやがて乾いて、なかったことになる。砕けたコップの破片も散らばったまま。空間の質量は変わらない。例えこの破片を触り指を怪我しても、いずれ治る。痛みもやがてひく。
ぼくはこれから新しいマグカップを買うだろう。生活に欠かせないものなので、Amazonで探すかもしれない。役割というのはそれくらいインスタントだ。一方でこのマグカップへの慕情はカーペットのしみより、指の怪我より、もう少し長く引きずることになる。壊れたマグカップを拾いもせずただ見つめている
パキンというほど高音ではなく、ポトンというほど低音でもない、手持ちのオノマトペには当てはまらない、マグカップが落ちた時あの中音域を、なんとなく忘れないないようにしたくて、忘却の圧力に耐えている。
破片を見つめると、床が汚いことに気づく。掃除機をかけようと思う。そのためには破片を拾い、捨てなくてはいけない。物思いに耽る時間もこれで終わり。現実の対処までの余暇は、あっという間だ。なにせこれから、昼ご飯もつくって、食べる必要があった。日常という渦、その引力は強い。
「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。