始まるために終わる、若年層向け生前葬サービス始まるよ
世の中には始め方が溢れている。作ったことない料理も、やったことないスポーツも、起業も、商店も、なにもかも簡単に誰でも始められるようになってきた。それがインターネット、あるいは産業革命の恩恵であり、それゆえ多様な選択肢を前に何も始められないこともあったりする。
しかし終わり方はどうだろう。学校は3年経てば自動的に終わるし、会社は破産すれば終わっていき、多くの活動も気力と体力が限界に達した時に終わっていくように見える。
それらはどこか受動的で、終わらされていくようにも見える。
終わりは何かの始まり、なんて使い古された言葉だけど情報化社会において重要なのは何をやるかではなく、何をやらないかということと似ていて、多くのことはちゃんと終わることで美しく始まっていくと思う。
終わる、という言葉にもいくつもの表現がある。卒業、決着、着地、ゴール、フィナーレ、エンディング、あるいは、死。
今年の6月、4度目の生前葬として個展を催した。
個展について詳しくは上記参照といったところなのだが、自分は人生の節目に決着をつける意味合いで生前葬という手段を用いて何度か終わっている。
人生は1度きり。そうなのだと思う。けれど、例えば1度きりの人生を1つの小説だとしたときに、それは複数の章によって構成されている。そして章が変われば場面や時代、キャラの設定だって変わっていることもある。1つの人生に対して1人の自分でいる縛りはないはずだ。
仕事としてかれこれ6年ほど物語(フィクション)と体験(フィジカル)を織り交ぜたイベントづくりをしてきたり、シャーマンをしてきたお陰で、大抵の妄想には具現化の道筋が見えるようになってきた能力を生かして、このたび他者の生前葬のお手伝いまで手を広げてみようと思う。
「白葬(Hakusou)」と名付けた。
火でも土でもなく、白に還っていく。
白葬は故人を弔うのではなく、個人を弔う。
いま生きている人たちが、新しい個人を始めるために終わる儀式だ。
ご依頼者の要望に沿って、オーダーメイドでその人だけの生前葬づくりをお手伝いする。斎場は我がアトリエ「White Out」
ご覧の通り、白一色の光の空間。
この場で白に融けていただこうと思う。
幸いなことに?棺桶もある。
実は生前葬のサービスというのは既にいくつかあるのだが、多くは近く死を予感している人であったり、高齢者向け。白葬は(そういう方々を拒むわけではないけれど)そうではない人たちに向けて、安価に、安易に、気軽に生前葬体験ができるようにする。
そこで、オーダーメイドに生前葬をつくるだけでなくもう1つ簡易なパッケージをつくった。
セルフ生前葬では、逃げBar White Outを1人で貸し切りことができる。
本物の棺桶もそこに置いておくので、入棺して眠っていただいても良い。
White Outはよく「死後の世界みたい」と言われるのだが、確かに白の色彩効果もあってか時間の感覚が消えていく人が多いという意味で、死後の世界っぽさはあるのかもしれない。
また、希望があれば入棺後にお経の音源を再生したり、線香を焚いたりしてそれっぽく演出することも可能なので、まずは1度入棺してみたい、生前葬気分を味わってみたいという方にはこちらがオススメ。死ぬ気でやらなきゃいけないことが人にとっても、目の前にリアルなプレッシャーがあって良いかもね。
オーダーメイドの方は1ヶ月以上時間をかけて、コンセプトから体験設計まで丁寧にヒアリングしながら企画制作していく。近いサービスでいうとCRAZY WEDDING。それの生前葬verみたいな感じ。
葬儀前に1度White Outへご来店いただき入棺して、遺影を撮って、臨死体験をしていただいた上で企画を進めていきます。何のために生前葬をするのか、何を表現したいのか、深く掘った先にある根元を共有できる体験として具現化していく。
生前葬に特に定型はないものの、例えば上記のような形であったり、今年自分がやった個展のような形であったり、あるいは世界でまだ誰もやったことがないような弔いの形もあるかもしれない。
参照までにこれまで自分がつくってきた(生前葬ではないけれど)クリエイティブの例と自分のことが何となく分かるインタビュー映像を載せておく。
生前葬をやってよかったこと
1人で完結するような自己暗示的生前葬や実際の葬儀のように人を招いての生前葬から、ちょっと人には言えないことから個展まで、色々な形でこれまで生前葬を催してきた。
生前葬は自分にとっては始まるために終わる儀式で、小説の章を隔てる白紙の1頁のようなものだ。人生は振り返ればあっという間に終わってしまう。だからこそ1章ずつちゃんと自分の手で終わらせていきたいと思った。
生前葬を催してよかったことを振り返ってみる。
①開催日までの時間の密度が変わる
生前葬の開催日はある意味で余命だ、というと大袈裟過ぎるかもしれないが、自ら仮想の余命を設定してみることで、人生でやり残したことや、本当に大切にしたいことが見えてくる機会になった。
実際最初の生前葬では4ヶ月前から準備を始めて、それまでに人生でやり残したことをリストアップしてスケジュールを組んで、悔いのない状態で当日を迎えた。
あまり自己暗示し過ぎると危険なのでお勧めはできないが、死は確かに生にとって1つの加速装置になり得る。メメントモリし続ける期間を作ると、これから生きる上で大切な方角が示されるかもしれない。
②大切な人たちに感謝を伝える機会に
死ぬ前に後悔しがちなこととして「あの人に感謝を伝えられてなかったなぁ」など大切な人たちへちゃんと言葉を伝えられてきたかどうかということがある。生前葬は参列いただいた皆様に生前のうちにちゃんと感謝を伝える機会としても機能する。もちろん感謝だけでなく、長年寄り添ってきたパートナーへ愛を伝えたり、子どもや家族に必要なことを伝えたり、恨んできた人に許しを伝えたり、心の中に封じている言えなかった言葉は誰しもあるはずだ。
③新しい章の始まりに
これまでの自分に一旦区切りをつけて、新しい章を始めていくためにとても良い。日々は何もしなければただ続いていくだけだから、ちゃんと終わることで始められることがある。例えば新しい仕事だったり、住居だったり、あるいはもっと大きな在り方だったり。人生はいくらでも自己矛盾していいし、自分らしさなんて好きなだけでっちあげればいい、活きたい方へ生きていけばいいのだ。幸せをあきらめないためのスタート台として生前葬は活きてくる。
④望む葬儀の準備ができた
葬儀は遺族のためだけじゃなく、個人の最後の表現としてもあっていいと思う。自分という作品の最後はちゃんと自分でデザインしたいと思う人にとって、生前葬はいいリハーサルになる。仏式で火葬のみが葬儀の選択肢じゃない。人には人の、相応しい葬られ方があるはずだ。葬儀で流してほしいBGMを選んだり、祭壇を設計したり、遺影を撮ったり、今のうちからやれることは多いし、今から考えるべきだ。いつ死ぬかは誰にもわからないのだから。
⑤自分の今を見せる機会として
人生のうち、大きな儀式は「卒業式」「結婚式」「葬式」しかない。学校も出なければ、結婚もしない、そんな選択肢も全然ありな世の中で、生前にできる儀式はまだあっていいと思う。生前葬は、自分の今を周囲の人たちに見てもらう機会としても役に立つ。卒業式みたいに”全体”でも、結婚式みたいに”2人”でもなく、ただ”1人”の自分のための儀式として、思う存分自己表現ができる。
死ぬ瞬間の5つの後悔
多くの死を看取ってきた介護士のブロニー・ウェア氏の著作「死ぬ瞬間の5つの後悔」によると死ぬ瞬間の後悔は大きく以下の5つに分けられるという。
「自分に正直な人生を生きればよかった」
「働きすぎなければよかった」
「思い切って自分の気持ちを伝えればよかった」
「友人と連絡を取り続ければよかった」
「幸せをあきらめなければよかった」
その全てがこの文章を読んだ3秒後に始められることだ。そして多分、すぐに始められるからこそ、始められない。「いつかきっと、、」と思っているうちに死神は目の前に現れるのだ。「じゃぁ始めよう」と思って始められばそれに越したことはないが、人は何かきっかけが必要だったりもする。そのきっかけの1つとして、生前葬はあり得るのではないだろうか。
もちろん、生前葬をやらない理由はいくらでもあるだろう。自分が死ぬなんてあり得ないことだって思ってるかもしれない。今じゃなくてもいいと思ってるかもしれない。そうやって生きていく方が幸せだなんて考え方もあるだろう。だからきっと万人にとって進められる考え方ではないと思うけど、自分はよりよく、しっかり生きていくためのきっかけに生前葬が必要だった。死と正面から向き合うことで始められることがあった。だから、自分と同じようにそれが必要な人のために「白葬」をはじめます。
生前葬をしたい方へ
この記事を読んでもし「やってみたい」と思った方がいて、白葬を利用してくれる場合はこちらのHPにて開催までの流れを参照の上、ぜひお気軽に問い合わせてください。しばらくは雨宮自身が併走させていただくことになるので、その点も踏まえてご検討いただければと。
もしご依頼数が増えてくるようであれば、生前葬のノウハウを共有の上プロデューサー候補も増やしていければと思うので、そちらに興味がある方も今のうちにぜひ。
ではでは
今日も良い1日を。
「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。