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次の世代に受け継がれていくものって何だろう。【"死"が残される人々に伝える情報】

年の瀬。ご近所さんにいただいたまま冷凍していた猪肉で今年1回目のワイン煮込みを作っていたところで電話が鳴る。

95歳の祖父が危篤らしい。

何度もガンになって、糖尿になったかと思えば、ここ数年は週に3回の人工透析生活。
肺炎になって、転んで骨折を繰り返して、今回はその骨折の入院中にコロナにかかったそうだ。

いやはや、どう考えても長く生きていると思う。現代医療をフルに活用して、延命を繰り返していると言っても良い。
しかし会う度に「痛い、痛い」とどこかしらの不調を嘆いているその身体はとうに限界だったのだろうと思う。例え生きながらえたとして、果たしてそれは喜ぶべきことだろうか。


祖父はとても厳しい人だった。会社員時代は、その冷徹さから「鬼の倉原」と呼ばれていたようだし、でも頑張る社員に対してはどこまでも義理堅かったようで、まあTHE昭和のリーダーという感じか。
(孫の僕は一切頑張らない人になりましたが笑)

戦争経験者でもある祖父。沢山の人を殺めた話、仲間が死んでいく中生き残った話は小さい頃から何度も聞かされていた。
最後は特攻隊に編成され、8月14日に離陸を待つ中で、急な待機要請が入り、その後終戦が知らされたという。類稀なる強運だったのは言うまでもない。
近年は鹿児島の知覧や、近隣の中学校などで、戦争体験の語り部としての講演を行なっていた。彼の着ていた服やヘルメット、そのほかの当時を物語る品々は知覧の記念館に展示してあるそう。まだ見に行ってないな。娘がもう少し大きくなったら、一緒に行こうかな。

ともあれ、戦争経験者でもあり昭和のリーダーでもある厳しい祖父は、ひたすらに孫に甘かった。
両親が忙しくしていたのもあり、僕は毎週末を祖父母の家で過ごしていた。
毎日食べたいものを食べさせてくれたし、欲しいものは何でも買ってくれたし、国内の沢山の場所へ連れて行ってくれた。とにかく孫のためなら何でもしてくれる祖父だった。(その結果、孫は主に物欲などをこじらせていった部分もあるが笑)

しかし今思えばどうだろう、
そんな目に見える、「お金を使って"してくれたこと"」よりも、もっと思い出すことがある。
それはいつも夕方4時前後に風呂に入る祖父の姿。
僕はよく一緒に入っていたし、温泉にも連れて行ってもらっていた。
あの時間帯の風呂は、もちろんまだ明るくて、いつも何だか特別な気分だった。湯気が生き物みたいに動き続けて、光に反射しながら上昇する。その様子と祖父の背中がいまだに頭に浮かぶ。あと、妙にうまい水鉄砲ね。よく覚えている。
今でも夕方に風呂に入ると毎回思い出す。いつの間にか、明るいうちに入る特別な風呂の悦を教えられていたようだ。

いつもテーブルを爪で弾いて、「ぱからっぱからっ」と馬の走る音に模した音を家に響かせていた祖父。(あれ集音しとけばよかったな。)
川魚が好きで、しょっちゅう釣りに連れて行ってくれたり、孫を喜ばせたくて菊池川に投網を投げて、現行犯で漁業組合のパトロールに注意される祖父。
なんてことないけど面白かったし、確かに愛情があったんだな。今だからわかる気がするよ。

今でも毎年夏になると孫たち家族で集まって、川遊びに出かけたり、釣りなどの自然体験を企画する。都会に住む曽孫たちにはとても新鮮な経験だろうし、この地に住む僕ら家族にとっては、それらは最早日常のように染み付いている。
お金なんてかけなくても、受け継いだ掛け替えのないものがあるし、それらは脈々と次の世代へ受け継がれていると思うな。

あーじいちゃんよ、本当に安心して。あなたは十分なものを残したよきっと。


そんな事を考えながら、もらった猪肉を煮込んだものを突きながらしっぽりと一人で飲む。

今年のワイン煮は我ながらとてもうまくいっている。
1.5キロの肉塊をバラし、大量のセロリとトマト、そしてマスタードシード、ローズマリー、クローブを加えて香りを整えた。
ただ何かパンチが足りないなと考えていたが、ああそうか、ニンニクを入れ忘れてたんだな。

次回はこのレシピに更にニンニクも加えてみよう。
生きている限り、挑戦は何度でも出来る。



12月23日の朝6時過ぎ、祖父は亡くなった。

一番悲しむであろう祖母が、加速度的な痴呆の進攻も相まって「みんなに会えるから嬉しい」とずっと上機嫌だったことと、小学生の曽孫たちのエネルギーのおかげで、久しぶりの親族再会の場は、笑顔の絶えない狂乱の雰囲気となった。笑って送り出されるなんて最高だね。

祖父がみんなの中に知らず知らずに残したもの。
それが存在する限り、祖父そのものも消えてなくなることはない。
引き継がれていくのは、散らばったいくつかの小さなイディオム。それは最早永遠の命のようだ。


余談

僕らが残していけるものも、同じように、何の気もない些細な日常かもしれない。
でもそこにあるのは共有した時間の面影。

離れていても、Zoomで顔は見れるし、話もできる。SNSで友人の近況は知っているし、買い物するのに家から出る必要もあまりない。テクノロジーの恩恵は計り知れないし、身分に関係なく情報を獲得できるし発信もできることはとても恵まれている環境だろう。

でも誰かの物質としての肉体が滅んだ先で、その周辺にいた人たちが覚えているのは直接触れ合った経験や時間の共有の部分であることが多いのではないだろうか。
こうなってくると、テクノロジーはあくまできっかけのツールであり、その先にある人々の結びつきに、肉体というハードウェア同士の接触は非常に大きな意味合いをもたらす気がする。
とすると、地域社会をはじめとするコミュニティの大切さや家族や仲間と「会う」ことは、やはり、肉体が滅んだ先に残る情報を次の世代につないでいくためには不可欠なものではないだろうか。

情報(ソフト)を残すために、肉体(ハード)で会う。
意図しないエラー的なものが情報として、結果的に残るには、尚のことこの「会う」ことが必要だなと感じた年の瀬だった。


最後に。
祖父が亡くなる決まり手がコロナだったこともあり、家族は誰も面会することができず、死に目をモニター越しに見送った。
病院や火葬場で再会する姿も、すでに真っ白な(中の見えない)ビニール袋に包まれた状態であり、誰もその顔をみることも、触れることもできないまま、即日遺体は焼かれていった。
一つの命が消えていくという大きな情報を、僕たちはほとんど受け取ることが出来なかった。これだけが心残りである。
祖父の命は医療によって守られながら、医療の壁の向こう側でするすると消えていった。僕たちが大切にするべきものは何なのか、これから十分に考えていく必要があると思う。

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