![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/139109967/rectangle_large_type_2_729e68a0987662566934b6b8bfda0802.png?width=800)
優しさは諦めで取り繕えてしまうし
優しさは諦めで取り繕えてしまうし、寛容さは想像力で補える。
それを理解しているからこそ、しんどい時もあるし、何もかも許せなくなってしまう時もある。
「優しい人」と評されることがある。別に自分では自分のことを「優しい人」だなんて思えないのだけれど、ありがたいことに、周囲の人からはそう評価していただくのだ。
いくつかの具体的事象を挙げよう。例えば、待ち合わせで2時間遅刻されたことがある(ここは東京だ)。飲み会で酔った友人にワイン(幸い白だった)をぶち撒けられたこともあれば、バイト代を貯めて買ったばかりの化粧品を落として割られた経験もある。しかし、いずれの場合も怒らなかった。というか、そういったときは大抵、怒る間もなく相手のほうが必死になってぺこぺこ謝ってくる(よい友人だ)ので、許さない理由がなかったのである。むしろ、相手に気を遣わせていないか心配になったくらいだ。そんな時はいつも「あ、大丈夫だよ」で済ませてしまっていたが、逆に「も~許さない、焼肉奢りね!笑」くらい言ってあげたほうが、もしかしたら相手は救われたかもしれない。しかし、怒りの感情が湧きすらしないので、そんな傲慢な真似はできなかったのである。
そういった実際的問題(主に自分が被害を受けること)について、私はすごく寛容なタイプだと思う。しかし、対人関係において許せない(理解できずに苛立ってしまう)ことが無いわけではなく、当然それはいくつも存在する。
例えば、「噓をつかれること」はそのひとつである。
嘘については様々な考えがある。「その時どうしても必要な嘘なら仕方ない」「人を傷つけない嘘ならよい」、など考える人も多いだろう。しかし、私としては「ついてよい嘘などひとつもない」と考えている。その嘘が必要か否か、またそれが人を傷つけるか否かは、嘘をつく本人ではなくその相手が判断するものだからだ。例えば「彼女にサプライズで誕生日プレゼントを用意したが、当日喜ばせたいので、事前に『今年はプレゼントなしだよ』と噓をついたが、彼女はショックを受けて当日までの間すごく悲しい思いをした」なんて事象も起こりうるのだ。どんなに些細な嘘も、つかないに越したことはないと私は思う。
計画的な嘘もその場しのぎの嘘も、後々ボロが出る。同調のためだろうとお世辞だろうと、私だったら言わない。そして、言うべきではない本音は黙っておけばよいし、悪口への同意を求められた時にはにっこり笑ってやり過ごしておけばよいのだ。
なぜこんなにも熱弁するかと言えば、私は基本的に他人を信頼したいと願っており、嘘をつかれると「信頼していたのに裏切られた」と感じてしまう。そこが弱点だと自分で気が付いているためである。
自らの弱点に対して、人は不寛容になる。
多くの人は何かしらコンプレックスを抱えているものである。そしてそのコンプレックスを何かしらの形で刺激されると、苛立ったり、怒ったり、許しがたくなってしまう。そしてなぜか、弱点の部分に限って見栄を張ろうとしたりする。25歳くらいになっても「センター試験は○○点だった」と自慢する知人、本当はレッスンが嫌で自分から辞めたのに「昔はピアノを習っていたんだ」と人前で弾きたがる友人、どんな過去があったかは知らないが子どもを小さいうちから塾に行かせて厳しく指導する(そのことを周りに言いふらす)ご近所のママ、やたらと渋谷に行きたがる地方出身の同級生。
そして私の場合は先述したように、「噓をつかれるのが苦手」という弱点がある。多分、義務教育時代に中途半端な仲間外れを受け続けたことが原因だとは分かっている。めったにない会話のうち数回に1回、主に遊ぶ際の集合場所やら時間やらをごまかされるが、どれも大したものではなく、先生に言いつけるほどでもない程度のささやかな仲間外れだった。結果として、「噓をつかれること」には今でも敏感だし、また「ごまかされる」「はぐらかされる」「質問に対してあえて不適切な答え方をされる」なども同様だ。それがどんな内容だったとしても、自分でも驚くほど感情的になってしまう。友人に恵まれるようになった今でもそれが苦手なのは、単純に私が幼いだけかもしれない。捻じ曲がった性格の問題かもしれない。人と本音で対話したい思いを諦められないからかもしれない。自分は本心で話しているのに、相手は本心を見せてくれないことに対する我儘な不満かもしれない。
私は優しくなんかない。自分が分かりやすく被害に遭うこと(待ち合わせでの遅刻、ものを壊されるetc.)には比較的寛容であるだけだ。ひとつの理由としては、「きっと悪気があったわけではないのだろうな」「きっと今は相手もすごく反省しているのだろうな」と想像ができる(場合が多い)からだ。相手の顔色や言葉遣いから、なんとなく感じ取れるので、怒る気が失せてしまう。もうひとつの理由は、私は実際的な問題について他人に期待をしていないからだ。具体的行動について、期待することを諦めてしまっているのだ。
一方で、弱点のほうに関しては相当不寛容である。第一に、相手の思考は想像力でカバーすることが難しいからだ。第二に、本音での対話を諦められないからだ。(第三に、私が怒ったときになぜ私が怒っているのか相手に理解されづらいからだ。)
こうして考えてみると、やはり「許せること」/「許せないこと」の差は、「想像できるかどうか」/「諦められるかどうか」の差かもしれないと思う。逆に、優しさは諦めで取り繕えてしまうし、寛容さは想像力で補える。それが分かっているからこそ、自らの諦めの悪さや想像力の無さに辟易し、結果として、こうして真っ暗な部屋の中で記事を書き続けているのだ。
誰にも許せないものがあっていい。諦められないものがあっていい。想像できないものがあっていい。全部嫌になって、投げ出してしまってもいい。そう言ってほしい。時には何もかもが許せなくなってしまっても、それでしんどくなってしまっても、それは必ずしも悪いことじゃない。そしてできることなら、不完全な自分を受け入れてくれる存在が身近にいてくれるといい。
今日も明日も、どこかのだれかと向き合って生きていかねばならない。そんな時、すべて自分が譲歩する側でなくていい。様々な思いを抱えながら、私は今日も玄関のドアを開ける。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?