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肩書の認識ギャップと、それを埋める責任はどこにあるのか

肩書と責任

肩書が生まれる時、肩書に対する定義が生まれる。
肩書に定義が付加された時、その肩書を持つ者は自身がその定義に則する者か判断する。

その行為は主観的な考えと、組織によって定義されたものの間にギャップを生み出してしまう。

ギャップをどう埋めるか

ポジティブに捉えれば新しい領域へのチャレンジの機会であるが、ネガティブに捉えればそんなものは自分の仕事ではないとなる。

一般的には肩書がつくということは何らかの役割を担うということであり、つまりその役割を果たすことを求められるものだが、はたして後者のように閉じ籠ってしまうことは肩書きに則していると言えるのだろうか?

自らの役割領域を果たすためには適切な環境が必要だが、ではそれは与えられるべきものなのか?自ら生み出すべきものなのか?

完璧な周辺環境などという夢物語を要求して、自身の成果価値が上がらない言い訳になっていないだろうか。

等級制度とと認知的不協和の関係

昇格とはどのようなタイミングで行われるのだろうか?

経験値が貯まると勝手にレベルが上がる?
そんなわけはない。

企業における等級は前述した通り役割であり、もっと言えば責任である。等級が上がれば役割は複雑で難しいものになり、果たすべき責任も大きくなる。

例えば英検で考えれば、二級と認められるのはテストを受けて合格点が取れた時である。つまり、二級相当の実力があることを証明可能であるということだ。職務等級でも同様に昇格後の責任範囲を問題なく担うことができると判断された時になる。

この状態には、現在の等級の責任範囲で仕事をしているだけでは絶対に辿りつかない。
何故なら、上位等級の責任を担うことをしていないから。少しずつ上位等級の責任範囲に足を踏み出しながら、一歩ずつ前に出る覚悟と、それをやり遂げるという学習とチャレンジが必ず必要になる。

自分はそれを果たせる人間であると信じて立ち向かうことで、現在の責任範囲に留まろうとしてしまう本能と戦わねばならない。

今日からわたしは上位等級として振る舞い、成果を上げるのだ、と自身を納得させられた時、認知的不協和が生まれて今までやらなかったことに手を挙げるようなチャレンジが生まれる。

コンフォートゾーンに閉じこもっていても、新しい世界は見えてこない。

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