ドキュメント年末年始或いは正しさを守る戦いについて
年末年始の一連の家族行事には「正しくあれ」という呪いがかかっている。
故郷に帰り、一家で正しく団らんをしなさい。
正しいお祝い料理を手作りで準備しなさい。
さあ、あなたも団らんをすべき正しい家族をもちなさい。
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「私はメンツユは使わないの」
年末の年越し蕎麦の支度をする度に母はそう繰り返す。
「うちの出汁は美味しいでしょう。私は化学調味料が嫌いなの。よくあんなものを食べられるわね」
一からとった出汁、揚げたての天ぷら。確かに我が家の年越し蕎麦は美味しい。
とはいってもこんなに完膚なきまでにメンツユを否定する必要などどこにもないはずなのだ。
なぜ母はこんなにも毎年繰り返しメンツユを激しく攻撃するのか。思うに、伝統的な母の役割を守ることを「正しい」とする彼女にとって、その存在は「正しさ」を脅かすものとして映るのだろう。
時間をかけて出汁をとること。季節ごとのケーキを手作りすること。お弁当に冷凍食品ではないおかずを日替わりでつめること。
彼女は多大な労力と時間を費やして教科書のような家族の生活を守ってきた。
メンツユ、いいじゃないか。そんなことを認めたら、彼女がこれまで必死に守ってきた美しい母の役割の価値が半減してしまう。
それでも、と娘は思う。
独身の娘は都内の会社で毎日でろでろの泥のようになるまで働いている。
21時にオフィスを出て、家にたどり着いたらでろでろの泥なりに夕食の支度をする。冷凍のうどん、ネギと卵とわかめ、そしてメンツユ。でろでろの泥は温かいうどんを食べて、人間の形を取り戻す。
メンツユがこの世から消えたなら、でろでろの泥はどうやって人間に戻れば良いのだろう。
メンツユ、いいじゃないか。
しかし娘はそれを言い出せない。なぜならそれは母の文脈では「正しく」ないからだ。
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お正月明けの都内のバーでいつもの友人とそんな話をする。
30代後半の独身女性2名、呼吸をするように毒を吐く。別にそんなことをする必要なんてないのに、いろいろなものに文句を言う。
お正月の家族の団らんが嫌い。
家族の写真と小田和正の歌が感動を演出する保険会社のCMが嫌い。
料理する女性の姿だけが流れる家電のCMが嫌い。
なんだかんだ言って30代後半を独身で過ごすのはあまり居心地が良くないことも多くて、私たちはその居心地の悪さを生み出していると思われるものたちを攻撃する。私たちのささやかな武器は堅実なキャリアと自立で、自分で稼いで自分で楽しむ幸せの「正しさ」を棍棒にして周り中の仮想敵を殴り倒す。
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自分の信じる「正しさ」を守るために、何かを攻撃しないと自分を保っていられない。
結局は母も私も変わらないのだ。
私たちはひどく自信がなく、誰かに批判されるのではないかとびくびくしている。そして先手必勝とばかりに仮想敵を叩き潰そうとする。
自分の正しさを虚空に振り上げて正義の戦いをするけれど、戦っている相手はおそらく自分の外には存在していなくて、自分の中に内面化された規範意識だったりするから、この戦いはどうにも虚しい。
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「正しさ」なんてきっとどうでもよくて、みんながそれぞれの心地よさを追究して、それを素直に認め合えればそれで良いのにね。
メンツユに愛を。一人暮らしに朗らかさを。
今年はもっとたくさん文章を書こうと思います。2020年もどうぞよろしくお願いします。