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取り戻す

 この1年ほど、好きだった音楽が聴けなくなっていた。

 もともと音楽が大好きだった。長く楽器を趣味にしていたし、毎日、隙間時間を埋めるようにiPodで音楽を聴き続けていた。コミュニケーションがあまり得意でない私にとって、音楽という趣味を持つことが人との関係を作るうえでどれほど助けになってくれたか分からない。「今度一緒に演奏できたらいいね」という言葉がどれほど人間関係を繋いでくれただろう。
 思えば元夫と知り合ったのも、共通の趣味である音楽がきっかけだった。二人の結婚式では好きな音楽を厳選して、BGMとしてたくさん流した。
 しかしこれがまずかった。彼との関係が悪化すると共に、好きだった音楽を聴くことが苦しい記憶を呼び覚ますきっかけになるようになった。結婚式で流した音楽のリストの中には、多くのスタンダードナンバーが含まれていたから、ふと入った飲食店やテレビからその音が流れてくることも少なくなく、その度に私は一人悶絶することになった。

 いつしか、通勤にiPodを持ち歩くこともなくなった。

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 11月半ば頃、某プレイガイドから一通の広告メールが届いた。大好きだったミュージシャンの公演でキャンセルが出た関係で、チケットの追加発売があるという。なかなかチケットの取れない公演だ。これを機に行ってみたら楽しめるかもしれない。
 えいや、と思い切ってチケットを取った。

 その後、11月後半から12月にかけては離婚協議が大詰めで、精神的に大きな負担を強いられる日々が続いた。それでも、どうにか今月2日に離婚届を提出して、私は自由の身になった。

 なんたる偶然だろう、私がチケットをとったのはその翌日、12月3日の公演だった。

 離婚届を提出した直後、まだ自分が離婚をしたということに現実感がなく、思ったほど気分も晴れず、自分が取り返しのつかないことをしてしまったようで少しでも気を抜くと泣きたくなるような、そんな気分だった。コンサートに行くことがちょうど良い気分転換になるかもしれないな、と朦朧とした頭で思った。

 ぼんやりしながらコンビニエンスストアで発券したチケットの券面を見て、私はびっくりすることになる。
 「1階席3列目」
5000人以上を収容する東京国際フォーラムホールAの1階席3列目。二度とこんな席に座ることはないだろうと思うような、信じられないほどの良い席だった。

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 至近距離のステージで見る演奏は、パワフルで、華やかで、圧倒的で、私は本当に久しぶりに心から音楽を楽しむことができた。
 好きだったものをもう一度楽しむことができている。そのことが実に嬉しかった。辛い思い出を超えて、私は音楽を取り戻しつつあるのだと感じた。音楽の神様が帰ってきた。そのことを感じるためにこの席に座ったのかもしれない。じんわり涙が出そうになった。

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 この日私が見たのは、ジャズピアニスト上原ひろみのトリオだ。
 とにかく生き生きとピアノを弾く人である。時に立ち上がり、足を踏み鳴らし、声をあげ、笑顔を見せ、苦悶の表情を浮かべ、感情やエネルギーが溢れでるような演奏をする。演奏テクニックは折り紙付きで、変則的なリズムや信じられないような高速のフレーズを自由に操出す。ピアノはこんなにも表現の幅のあるカラフルな楽器なのかと、見るたびに驚嘆するのだ。
 このツアーのトリオのメンバーはドラムスがサイモン・フィリップス、ベースがアドリアン・フェロー。サイモンのドラムスは壮大な風景が見えるような豊さ、アドリアンのベースは歌うような繊細なメロディ。三人が煽りあいながら演奏の熱量が高まっていくさまはすさまじく、魔法のようなバンドだと思うのだ。

 コンサートの終盤、バンドのメンバーを退場させ、ピアノソロで奏でられた一曲がある。
 「『Wake Up and Dream』 目覚めてまた夢をみる、という曲です。ピアノを弾いて生きていくという夢をかなえてくれた皆さんに感謝しています」
彼女はそう言って弾き始めた。
 彼女の作る曲はテクニックを強調するようなアップテンポで技巧的な曲が多いのだが、この曲はしんと静かで美しい。 

 私は長い暴力の悪夢から覚めて、ここにいる。もう夢を見ることなどできないと思うくらいに疲れている。でも、もしかしたらまた家族を持つという夢を取り戻すことができる日がくるのかもしれない。
 彼女の演奏を聴きながらそんなことを考えた。

※よろしければ彼女の演奏をどうぞ。「Wake Up and Dream」美しい曲です。

 

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(付録:最近考えていることなど)
(1)転職しなくては、と思っています。元夫が職場の場所を知っていることを不安に感じているためです。もう一頑張り。
(2)趣味は落語とジャズです、というとちょっと親父くさいですね。そんな30代。

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