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物語の余白の魅力 ー瀧川鯉八師匠のこと

落語家の真打昇進披露興行、それは特別な高揚感と祝福に包まれたイベントだ。
落語や漫才が並ぶ寄席のプログラムの半ば、お中入りの後に高座の袖から「東西東西!」と声がかかり、するすると幕が開く。そこには昇進したばかりの新真打とその師匠、そして新真打と関わりの深い師匠方が黒紋付きでずらりと居並んでいる。入門時のエピソード、修業時代の失敗談、楽屋での日常のこと。じっと手をついて控える新真打を横に、師匠方が愛情と笑いのあふれる口上を順々に述べていく。そして口上の最後は会場も一体となって三本締めで祝福するのだ。
その日のプログラムは新真打がトリをとる。お祝いのために駆けつけたお客さんたちの笑いと祝福で寄席が揺れる。

自分のお祝いではないのに、さらに言えば自分が何か貢献したわけでもないのに、とにかく喜ばしさでいっぱいになる。
自分の好きな落語家の新たな門出を祝えることが嬉しい。
新真打の誕生は脈々とつながる落語の歴史の中の大切な一点なはずで、そこに立ち会えていることが嬉しい。
数年後に私はあの披露興行を見たのだと誰かに自慢できることを想像するとまた嬉しい。

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観劇やコンサートや、そういう私が大好きなものたちをしばらく遠ざけて生活して来たけれど、これは何があっても絶対に行かねばならない、と思ったのだ。大好きな落語家、瀧川鯉八師匠の真打昇進披露興行。

瀧川鯉八師匠は、昔昔亭A太郎師匠、桂伸衛門師匠と一緒にこの春に真打に昇進したのだけれど、世の中の状況を鑑みてお披露目の興業は秋まで延期ということになっていた。そのお披露目の場が、やっとやっとやってきたのだ。待っていた。師匠のために三本締めできるのを待っていた。

鯉八師匠の落語は不思議だ。いつも自作の新作を演じる師匠なのだけれど、師匠の話はなんだか不思議だ。
例えば、お婆ちゃんが孫のにきびをつぶそうとする話。
例えば、金平糖と引き換えにひたすら俺をほめてくれという話。
登場人物達がなんでそんな行動をしているのかが、まったく説明されないからよく分からない。よく分からないままに話はどんどん進んでいき、そして何故かきっちり面白い。
よく分からないものをよく分からないままに差し出されるというのが快感なのかもしれない。説明されない余白の部分を必死に想像しようとしてみると、人を突き動かす承認欲求だとか集団心理だとか、なんだかそんなどろっとして黒いものに想像が及んでくる。
あははと大笑いしながら、登場人物を動かしている何かのことを考えて少しぞくりとする感触がある。
私はそんな余白があるが故に、鯉八師匠の落語が大好きだ。

物語の説明をそぎ落とした新作を演じるのは、さぞかし怖いことではなかろうか。
「よく分からないね」
そんな風に一言で切り捨てられてしまうかもしれない。
それでも聞き手の読解力と想像力に委ねてぎりぎりの余白を差しだそうとする。
どこまでを余白で残せば聞き手はついてこられるのか、豊かな奥行きにたどり着くことができるのか。
せめぎ合う際で線を引き、それを差し出す。鯉八師匠は誰よりも勇敢な作り手であり演じ手だと思うのだ。

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その日は17時からの公演のために新宿末廣亭に14時にたどり着いた。
寄席は当日券のみで予約がきかないものなのだ。札止めになって入れないなどという失態を犯す訳にはいかない。私は真剣だ。
一番乗りかと思いきや14時過ぎの時点ですでに整理券の番号は二十番台。みんな真剣なのだ。

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大爆笑しながら口上を聞いて三本締めをして、多幸感に包まれてお披露目の興業の時間は流れていく。
そしてトリで高座に現れた鯉八師匠、口を開くなり「おのれの人気がおそろしいわ!」と雄叫び。
あとはいつもの鯉八ワールドである。

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鯉八師匠、私と年代もほぼ同じ。
これはつまり、私は師匠の芸がこれからどうなっていくかを全て見届けられるということだ。
往年の名人達の落語を聞くのも楽しいことだけれど、好きな落語家をリアルタイムで追い続けられるということは、この上なくエキサイティングなことに違いない。
これから師匠が歩んでいく道が本当に楽しみなのだ。

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