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困ることのエネルギー

「彼は今の状況に困っていません」

 夫の主治医から聞いたこのフレーズは私にとって実に衝撃的なものだった。
 この台詞を聞かされた時点で、夫はアルコールや精神安定剤にひどく依存しており、心と身体のコントロールを完全に失っている状況だった。仕事をすることもできなくなり、度々の暴力や暴言によって家族の信頼関係もすっかり崩壊していた。
 困っていないはずなんてない。いや、むしろ絶体絶命といっても良い。それでも「彼は困っていない」というのだ。
 しかし、確かに病院で問診を受ける彼の態度は「困っていない」ものだった。
 彼は言うのだ。自分が荒れてしまうのは復職してほしいとプレッシャーをかける妻のせい、自分にあった薬を処方してくれない主治医のせい、自分の苦しみに迅速に応えてくれない病院のせい。環境さえ整ったら自分は上手くやれるのに、自分には問題なんてないのに。

 病気になったら「困る」のは当たり前のことだと思っていた。少なくとも、自分自身は今までそうだった。体調が悪いことは辛い。思うように動けないことは辛い。一刻も早く良くなりたいと思う。

 しかし、依存症という病名で診断されている彼は「困っていない」と言う 

 当たり前と思っていたことが根本から揺らいだ。
 私の当たり前は当たり前ではなかったのだ。

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 夫の病気のことを学ぶ中で「病識」という言葉を知った。これは病気であることを認めて受け入れることを指す。本人や周囲の家族が病識を持つことが、治療を始める出発点になる。

 依存症の患者は病識を持つことができないケースが多くあるという。

 自分が依存症であることを認めるのは確かに容易ではないだろう。
 「あなたはアルコール依存症です」と医師に告げられる場面を想像してみる。一体どれほどの不安を覚えるだろう。小説や映画に登場するアルコール依存症の患者の姿を思い出して(手が震える、幻覚を見る、大声でわめき散らす…)、自分が思い描いていた人生が崩れ落ちるような、絶望的な気分になるかもしれない。あまりの恐ろしさに医師の言葉をすべて否定したくなるかもしれない。

 私は依存症なんかじゃない。私は病気なんかじゃない。私は大丈夫なんだ。

 どれほど周囲から論理的に言って聞かされても、私はきっと自分の病を簡単には認められないだろう。それは周囲からアプローチできる類の問題ではないのだ。病気に対する恐怖心や根拠のない偏見といった本人自身の心の問題なのだ。

 依存症という心の病気を認めるのは本当に困難なプロセスだ。でもこのプロセスを越えることさえできれば、治療を始めることもできるし、行政の支援サービスを受けることもできる。生活を良くするために具体的な行動をしていくことができる。

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 再び「困る」ということを考えてみる。

 「困っている自分に気付ける」ということは、問題を解決するための第一歩だと思うのだ。自分が名前の付いた病気であることを受け入れて認めることは、ハードルの高いことかもしれない。それでも、自分が日常生活で困っている一つ一つの出来事に気付いてそれを認めることならば、きっとできる。
 アルコール依存症であると認めることは難しいけれど、体調の悪さ(それは二日酔いや離脱症状であったりするのだろうが)や、会社に定刻通りに出社できずに困っているのを認めことならばきっとできる。
 自分が困っていることを受け入れられたならば、困りごとを解決するためにどうしたらいいかを考えられる。病識を得ることはその解決の過程の一部分なのだと思う。

 アルコール依存症患者は治療の開始にあたって「底つき」を経験することが必要と言われる。仕事や家庭が立ち行かなくなり「底」まで行くことが、本格的な治療を開始するきっかけになるのだという。底にいって「困っている自分」と向き合うことが、決して楽なものではない治療の道を歩むための原動力となるのだ。

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 「困る」はどちらかというとネガティブな響きのある単語かもしれない。
 しかしそれは決して悪いものではないと私は思う。
 どのような場面でも、適切なアンテナで「困っている自分」を察知できるということは、問題を解決するために行動し始められるということだ。困るべき状況で困れるということは、状況をより良くするためのエネルギーを得られるということなのだ。困ることは力強く前に進むための原動力になる。

 自分のために困ることができる人は、自分の毎日を少しずつ良くすることができる。誰かのために困ることができる人は、きっととても良いリーダーになれる。

 「困ること」をもっともっとポジティブに受け止めていきたい。そして勇気をもってごまかさずに「困る自分」と向き合いたいと思う。

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