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「ほ」星野源とあの頃のアイポッド達へ

 お久しぶりです。勇者とアルコールの摂取が優先度高めになった週となってしまいました。は行って結構きつかったですね。というか、な行とは行がきついっすよ!!そんで、今回はかねてから書きたかった星野源さんを書いていきます。

そんなこと考えていたら、彼からのプレゼントが有りました。

新曲も最高ですがそれにしても、昨年の紅白のパフォーマンス最高でしたね!私的には2020年のライブでどのものよりも一番でした。今まで彼の音楽の集大成のような作品となりましたね。

こっそり、サビ前にセプテンバーのサビ前乗せてるとかそういう愛が音楽好きを唸らせてると思うんですよね。

まずは、みんなご存知星野源の経歴について
自由の森学園中学校・高等学校卒業。中学生の時にギターと演劇を始める。高校生の時に大人計画の舞台を見て、同劇団のワークショップに参加。
2000年10月、同じ高校出身の同級生らを誘い、インストゥルメンタルバンドSAKEROCKを結成。
2003年大人計画への所属が決まる。
2007年、『テレビブロス』9月1日号より、「細野晴臣と星野源の地平線の相談」を連載開始。映像制作ユニット「山田一郎」(星野源、山岸聖太、大原大次郎)を主宰し、制作したSAKEROCKのMV「ホニャララ」が、2009年『SPACE SHOWER Music Video Awards』のBEST CONCEPTUAL VIDEO賞を受賞した。
2010年、ソロデビューを果たす。1stアルバム『ばかのうた』をビクター内の細野晴臣主宰のレーベル「デイジーワールド」から発売。CDショップ大賞第3回入選。
2011年10月、ソロ名義での2ndアルバム『エピソード』が、オリコン・ウィークリーチャート(2011年10月10日付)で5位を獲得、第4回CDショップ大賞準大賞を受賞した。
2012年12月22日、くも膜下出血と診断されたため、活動を休止。Wikiより抜粋
その後の活躍は皆さんもご存知のことだろう。

今回は、みんなが知っている星野源というよりかは、彼がまだ一人として活動していたときについて取り上げていきたいと思います。そして、そこから彼がヒットしてくまでで書いていこうと思います。あー、書きやすい!とにかく書きたいことがドバドバ出てくるのでもう書いていきます!

出会いと震災とモノクロな景色

 先程挙げた動画でもそうですが星野源は最初一人だったんです。ファーストアルバム「ばかのうた」も彼が弾き語りで持っていた曲のまとめのようなアルバムになっております。音もミニマルで現代のHOSONOHOUSEともいいうべき、彼なりの初めての着地点を見つけた作品となっております。歌詞の中で「私」と「あなた」の二項対立で、結局男女はうまく分かり合えないような下を向いてしまうような作品ばかりです。それもそう、この頃星野源は自分で歌うことに抵抗があったのです。どこかのインタビューで読んだのですが、失念してしまって引用できないのですが、SAKEROCKというインストバンドで幕間のように歌うことはありましたが彼はあまり自分で歌うことに意欲的ではなかったようです。

他の動画を調べてみてもゲストボーカルを迎えてばかりで自分であまり歌わないんですね。

そこである人と出会うわけです。そう、彼です。細野晴臣さんです。

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彼のレーベルからこの「ばかのうた」が2010年にリリースされるんですがその後タワーレコードの店員さんなどの熱いプッシュも受けて密かなヒットを飛ばす。

その後起きたのだ。そう、3.11が。

本当にこれはこの時を生きた人にとってはあの時自分はどうだったとみんなが話し、みんなで共有していた大変なことが起きた。かく言う私は2011年度に大学受験を控えており、相当な不安を覚えた。

その9日前にリリースされたのがこの「くだらないの中に」という曲だ。当時ラジオでも日々の日常がとても大事であると常々流されておりこの曲はそんな人々の心に寄り添う歌詞。日々の何気ないあの子との日々を切り取った曲が日の目を浴びることとなる。私のこの曲から彼のファンとなった。

「くだらないの中に愛が。人は笑うように生きる」そう、私達は生きるしか無いのだ。どんなことが待っていようと、どんな良いことがあろうと生きるしか無いのだ。その刹那に幸福や絶望を感じていることこそ幸せなんだろう。それさえ感じられなくなってしまったら人としての死に等しい。だからこそ、私は人の生を感じる瞬間が大好きだ。この曲もそうだろう。

「寂しいと思うには僕はあまりにくだらない」

人は生きる価値は無いのだろうか。そんな事はない。ただし、「悪いことは重なる」し「苦しい日々は続くのだ」その先に見えた光こそあなたにとっての。そして、私にとっての蜘蛛の糸なのではないだろうか。

いつまでもその糸を求めて地を這いずり回っているがどれも偽物である私が言うのも変だが、いつかその光の糸は見つかるはずである。それがこの頃のしんどい時の星野源なのだろう。

カラフルになる瞬間

 前の記事でも書いたが、オズの魔法使い然り、表現をしていく人間にはその人の色がつく瞬間がある。フォロワーも増えたし、星野源はどんどんと明るくなる。それを知らしめるに至った曲はこれだろう。

その前のストレンジャー、イエローダンサーというアルバムでもだいぶ色づいていくんですが自分の色を獲得したという意味でこの曲を挙げていきます。まず、ダンサーの衣装に注目する黄色なんですよね。そう。かれはイエローミュージックの追求をこの頃から意識して追求していくんだと思ってます。違ってたらごめんなさい。前のアルバムでもイエローダンサーというアルバム名だったこともあり、かなり細野晴臣さんが率いたYMO(イエローマジックオーケストラ)からの黄色人種ならではの音楽の追求ということに舵をとっていったように感じます。

その後についてはみのミュージックから聞くと最高です。

どれだけ売れていっても彼は音楽というものに絶望をしません。なんなら、ひたすらにグッドミュージックを作り続けてくれる。そして、その時の自分にぴったりな彼を自分を落とし込むという作業をここ10年はずっと繰り返しているように感じます。最近では原点回帰と言うかなんだかんだ一番好きな生まれ変わりという曲が一番好きです。

家族との愛を歌うのですが、父親のことを考えること半分。もうその年に近づいている自分半分で曲を聴くわけです。

「何度も何度も過ごした日をいつまでも覚えられるかな」

ああ、自分はそこまで到達もしていないし、結果どうであれ自分でしか無いんですよ。久しぶりに。

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結局、自分という生き方に舵をとってしまったがゆえに変に船頭をいじれなくなってしまったのかな。まあ、それも人生さね。

となんだかんだ一緒に居てくれるドラえもんのように音楽は添い遂げてくれる。そして、どれだけ売れようと星野源もそうなのだ。

切り売りパートあの時のポータブル音楽プレイヤーに愛を込めて

 星野源を初めて聴いて、音楽プレイヤーに落とし込んだ時、私はアイポッドを愛用していた。しかし、その前まで私は弱小負けハードを負けると分かりながら愛用していた。それが生産中止になったから仕方なく使っていたのがこいつだ。

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そう、アイポッドクラシックというやつだ。とにかく重い。そして容量がえぐい。その頃で500GBと言えばもはやどれだけ入れても大丈夫という容量だった。音楽好きだった人はこれをこぞって使っていたのではないだろうか。

しかし、その前私が使っていたのはアイポッドでもウォークマンでもなく、これだった。

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なぜか私は松下電器の崇拝者だったのだ。今でも何故そうなったのか謎でしか無い。コンポもパナソニック製だった。

当時、録音できる最大の容量が2GBであった。その中で自分の好きな音楽をどれだけつぎ込むのかと言うのがパソコンと自分自身の駆け引きであり。あ、「ファンクラブ(アジカンの3rdアルバム)入れるとギリギリ容量オーバーかあ」とパソコンと格闘していた記憶が今でもすぐ蘇る。

そういうしがらみがあるからこそ、偏愛というものは生まれていくのではなかろうか。

新しいアルバムを買ってものすごく良くても自分の手持ちは限りがあるのである。その中で中学生からずっとレギュラーだったアルバムがある。今では聴きすぎてあまり手に取ることは無くなってしまったが、そういう風に音楽というものは愛するものだと中坊ながら勝手に認識したものだ。

逆にこの容量無限大の中で自分が一番好きなアーティストってなんだろうと最近良く考える。

それは一過性で過ぎ去っていくバンドばかりになっていないかと。2GBの容量の波には乗り越えられなかったのではないかと。

そういった意味で残ってきたのが、最近自分が口にするグッドミュージックなんだろう。ただし、これもアルバム単位というわけではなく、シングル単位になってしまう。

どんどん、音楽が消費されるスピードが加速していると言ってもいいだろう。それの恩恵もある。ただし、恩恵という光が強ければ強いほどに影もまた深まり、大きくなっていくということも認識しながらこれを享受しなければいつかしっぺ返しを食らうはずである。それだけは肝に銘じて、2GBからの呪縛からの開放に打ちひしがれていきたい。

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