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「ニュータウン」、「廃墟」、クリナメン~あるいは「赤い洋服の幽霊」をめぐって

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何度見ても、『叫』(07)に出てくる女性の幽霊は怖い。これがその幽霊なのだが、とはいえ彼女は幽霊というには、物質的な肉体も持っているようだし、人間に近いような気もする。映画で幽霊を描くとすれば、CGを使うか、本物の人間を使わなくてはならないから、ある程度は仕方のないことなのかもしれない。他にもJホラーの有名な幽霊には人間の姿をしている幽霊が例えば、『リング』とか『呪怨』にも登場する。そうした幽霊と、『叫』の幽霊の違い、それは、彼女が来ている服の色にある。
(いやかもしれないが)もう一度最初の写真を見てみよう。真紅の洋服が僕たちの眼をひきつけている。普通、幽霊と言えば、その洋服は白だろう。『リング』の貞子も『呪怨』の伽耶子もそうだ。でもここではなぜか、まばゆいばかりの「赤」が使われている。
これはなぜだろう。こんな些細な疑問を出発点として黒沢映画を巡る話をしよう。その道筋には『叫』以外にも多くの黒沢作品が登場するだろうが、最終的にはこの「赤色の幽霊」が持つ特異性について考えてみたい。

1、
『叫』は2007年に公開された黒沢清監督の作品で、東京の臨海部を舞台に起こる奇怪な殺人事件が物語の中心におかれる。主人公は、刑事の吉岡。彼はこの殺人事件を捜査しているうちに、赤色の服を着た女の幽霊に取り憑かれるようになる。この幽霊は強烈で、あらわれるやいなや、耳をつんざくばかりの叫び声をあげて吉岡に迫ってくる。この幽霊の正体は一体何なのか?吉岡がそれを調べていくうちに、かつて湾岸にあった精神病院の存在が浮かび上がってくる。この女はかつてその精神病院で虐待を受けて死亡したのだ。
速水健朗はこんなことを言っている。

本作は、単に戦前に精神病院で死んだ女の怨念が化けて出る話ではない。高度成長期、開発が頓挫したバブル期、そしてその後にやっと始まった大規模な湾岸の再開発。物語を通して語られるのは、湾岸開発の歴史である。これらの街の変化に覆い隠されたものが幽霊の形を借りて現れる。それが、『叫』の幽霊の正体なのだ。

速水健朗『東京β』、筑摩書房、2015年、p. 74

この説明は、僕たちが考えようとしている問題に、ヒントを与えてくれる。なるほど、この女性の幽霊とは、街を美化するための急激な開発で覆い隠されてしまった、湾岸地帯の汚い部分、もっと言えば東京という街の暗部なのだ。事実、この映画のキャッチコピーは「東京の暗部をえぐり出す」というものだ。でもなぜそれは「赤」の衣服で登場するのだろう。『叫』を考えるときの視座として「都市開発」という観点が有効であるようだが、「都市開発」と「赤」はどのように結びつくのだろう。

2、
今はもう解散してしまったが、2004年に出来た、「美しい景観を創る会」という団体がある。当時の内閣都市再生戦略チームの座長を務めていた伊藤滋が中心となって、「都市の美化運動」を進めるこの会は、自分たちが目指す景観がどのようなものであるかを明確に示すために、写真付きで「悪い景観100景」というリストを作成していた。なぜ、良い景観ではなく悪い景観かというと、「日本人に日本の景観は悪いのだということをまず知ってもらうため」なのだと伊藤は説明しているのだが、リストには景観が悪いと思う場所の写真と、その理由が短く書かれている。そして、そうした「都市の美化運動」に連動する形でこのリストによって「悪い」とされた景観は、スクラップされ、その上に「美しい」建物が建てられる。
その中に「下品な店ほど赤色の広告を使う」というなんとも辛辣な説明が付された項目がある。現在はこの会のサイト自体が消失してしまったために、その写真は見ることが出来ないのだけれども、これと同じ時期の2006年、皇居の近くに出来たばかりのイタリア文化会館の色が問題となり、当時の都知事であった石原慎太郎が周りの景観をつぶす、皇居の景観をつぶすとして手厳しく批判したこともあって、2000年代に起こった「都市の美観運動」においてことさら「赤」というのは敵視されていたらしい(写真2を参照。壁面の真紅は、『叫』の赤い幽霊の衣服そのもののようだ。さらに『叫』が公開されたのは2007年で年度が近いことも興味深い)。

イタリア文化会館の外観

だとすれば美しい景観を求める美観運動の陰で糾弾された赤(それも原色の!)は、かなり明確に当時の東京の都市景観状況を反映しつつ、カッコつきの「美しさ」の広がりの中で消え去っていくものという象徴的な意味が担わされていることが分かるだろう。しかしこれでもまだ不十分である。なぜなら「醜い景観狩り」が相手にした色は――確かに赤への執着はあったものの――赤だけではなく、原色看板全般だったからである。
さらに、それは当時の都市状況を反映していたとしも、黒沢映画全般に対する新しい考え方を僕たちにもたらしてはくれない。速水健朗の解説から何も進展はない。では、こうした景観の観点から、更に深く「赤」である意義を見つけ出すことは出来ないものだろうか。

3、
五十嵐は2000年代の半ばに起こった美観運動を「醜い景観狩り」と呼んで、一義的に美/醜の価値判断を決定しまう風潮が、国家レヴェルの都市政策だけでなく、一般人のレヴェルまでに広く浸透していることを指摘した(その中で「赤」の広告が糾弾され、浄化されていったわけだ)。その例として五十嵐は自身が学生に課したレポートの結果を取り上げる。その課題とは、「自分が思う美しい建築と醜い建築を写真に撮り、その理由を述べること」であったというが、その結果は以下のようになったという(ちなみにこの学生とは、建築学科の1年生であり、まだ専門的教育を本格的に受ける前の学生たちなので、その感覚は建築に対して素人に近い)。

学生たちが撮った「美しい」建築・「醜い」建築だと思う建築物の写真。

学生たちは、新興住宅街や、郊外のニュータウンに見られるような西洋風の真新しい建築を美しいとし、一方で左のページに見られるような古びた、廃墟や廃工場を思わせるような建築を醜いと思ったようなのだ。そこから五十嵐は考察を進め、学生たちは単純に新しいものを美とし、古くてさびれたものを醜としているのでないか、と考えた。そして、言うまでもないが東京において「赤い洋服の幽霊」が象徴していたように忘れ去られ、新しいものに建て替えられていく運命にある建物が左側のページの建築群だろう。
ところでこの左側の写真の建物を見て、図らずも黒沢清の映画によく出てくるような建物を想起してしまうのは僕だけだろうか。試しに黒沢のいくつかの映画に出てくる建物を切り取ってみると、確かに映画のロケに使われた場所は、学生たちが醜いと判断した場所に似ている。


『cure』(1997)の1シーン
『回路』(2000)の1シーン
『叫』(2007)の1シーン

一方で右側の建物群は、というと、こんなテーマパークのようにしつらえられたかつてのハリウッド映画やヨーロッパの映画のセットのような建物は黒沢の映画には登場しない。
しかも左側の廃墟を思わす建物群は、『叫』では――「赤い服の幽霊」の死んだ精神病院が廃墟として出てくるように――黒沢の映画において物語の重要な局面で登場することがきわめて多い。もちろんこれには黒沢自身が語るようにロケ地を選定する際における、金銭面などの現実的な問題が絡んでいる。つまり真新しくてきれいな建物が立ち並ぶエリアよりも、使い古され、廃墟のようになった工場跡地のような場所の方が撮影が安上がりで済むということだ。しかし黒沢はこのようにまだ現存しているくすんだ建物を執拗にその映画に登場させ続けていて、それは『叫』の「赤い服の幽霊」が執拗に主人公の前に映し出される事態と同様の事態を指し示している。赤色のけばけばしい広告が美観運動の下で消し去られていくのと共に、こうした古ぼけた建物も景観の名の下で壊されていく。
そして確かに黒沢は右側のページのような建物を多くは写さない。でも黒沢の映画をよくよく考えてみるならば、決して右側の建物たちの存在が無視されているわけではないことに気が付く。どういうことだろうか

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