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井口奈己の欠点について

私たちが井口奈己という1人の映画作家について語るとき、私たちが語ることとは一体どういうものであるべきか。誰もがその映画的才能を称賛し、その人間的演出能力を敬慕し、しまいには「井口こそが現代日本の最高の映画作家」とまで言いだす者(紛れも無い私である)もある中で、今井口奈己について語ることが、果たして実直な称賛だけであるべきか。井口奈己の作った3本(あるいは4本)の長編映画を、ただその素晴らしさだけを指摘して褒め称え、まだ井口の名を知らぬ者へ伝えるだけでいいのか。あるいは井口奈己の演出の  —その作品にいくらか残されている—   弱さをあえて論うべきなのか。私はそれを、斜に構えた天邪鬼な心持ちから言っているのではない。私は誰よりも、井口奈己の作品に感動し、井口奈己の演出に影響を受けている人間の1人だ。そしてだからこそ、「井口奈己の欠点」をこそ今語るべきだと思うまでに至ったのである。
井口奈己は素晴らしい。その素晴らしさは、新たな映画を作るに従って増すばかりである。『人のセックスを笑うな』は『犬猫』よりも素晴らしい。『ニシノユキヒコの恋と冒険』は『人のセックスを笑うな』よりも素晴らしい。この後井口の欠点を指摘することになるのだから、ここでまずその作品の素晴らしさをざっと追うのが礼儀だろう。

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映画において魅力的な登場人物とは2種類しかいない。現実にいる魅力的な人間と、魅力的な世界にいる普通の人間との2種類である。前者を撮ることは、いくらか容易い。なぜなら現実の私たちの周りにいる魅力的な人間を模倣してキャラクターを造形すればいいからだ。しかしながら一方で後者を撮るのはあまりにも難しい。これを撮れるか撮れないかが、映画の才能の有無を分けると言っても過言ではない。「魅力的な世界」を作り出すということ。これこそが物語芸術の最大の課題であり、かつての名匠たちが自らの天才性を物の見事に発揮した分野でもある。フォードがそうだし、ホークスがそうだし、ルノワールがそうである。溝口健二もそうだろう。しかし今日において「魅力的な世界」とはまた同時に、非現実的であるとして忌み嫌われる世界でもある。フォードや溝口の時代とは違う時代に生きる我々において「魅力的な世界」とはあまりにも扱いにくい存在なのである。そして井口奈己の才能はここにある。「魅力的な世界」を創造できるという才能である。彼女の捉える世界は魅力的だ。よく人は、溝口の描く女性が素晴らしいというのと同じ仕方で、井口奈己の捉える人間が素晴らしいと言う。しかし正しくは、井口奈己の創造する世界が素晴らしいのであり、井口の人間はその世界の中の普通の人間に過ぎないのである。例えば『人のセックスを笑うな』におけるえんちゃん(蒼井優)。彼女がバイトしている映画館のロビーで、みるめ(松山ケンイチ)とユリ(永作博美)が親しげに話しているのを、カウンターから覗いている。ユリがふとえんちゃんの方を見やると、彼女はカウンターの下に隠れる。その後チケットを買いに来た別の客に対してもカウンターの下に隠れながら対応する。この一連の動きがカメラ据え置きのワンカットで捉えられるのだが、この彼女の滑稽な動きこそ、魅力的な世界の住人の仕草でなくてなんであろう。また同作で、ユリに夫がいることを知ったみるめが、美大の準備室のような部屋でユリを待ち伏せし、部屋の前をユリが通りかかった瞬間に彼女を部屋に連れ込むという動き。ロングショットで捉えられたこのシークエンスは、赤い服を着たユリがみるめに襲われ、叫び声をあげながら体を四方に伸ばしながら部屋に連れ込まれて行く。彼女が持っていたプリント類は当然散らばり、2人が部屋に入って静かになった後も、一枚のプリントがゆらゆらと宙を舞っている。この後に続く夢幻的とまで言えるショットについては語る余裕がないが、兎にも角にもこの「面白い」動きたちが、井口奈己の「面白い」世界の分かりやすい表象であることは明らかだ。『ニシノユキヒコの恋と冒険』においても、井口はこの「魅力的な世界」を捉え続けている。終盤、映画の狂言回しであるみなみが江ノ島の海をバックに堤防の上を歩くショット、ここでも井口は先ほどの『人のセックスを笑うな』のシーンと同様に、ロングショットで人を小さく捉えている。このショットにおけるみなみの歩き方は、ゴダールのマリアに匹敵するほどの美しさを有している。これは現実ではない。現実であるにはあまりにも大げさであり劇的すぎる。しかし井口奈己の人間は、大げさである自分を見る者にそうとは気づかせない。あくまで自分は普通の人間だと言い張っている。しかし彼らは、普通であるにはあまりにも魅力的すぎるのだ。

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ここまで井口奈己の才能を称えておいて、彼女の欠点を書こうとするのには、明確な理由がある。それは井口奈己が、未だ「完璧な映画作家」でないことである。個人的な意見だが、今日において、井口奈己は黒沢清より優秀な映画作家である。しかし井口が「完璧な映画作家」でないという点において、黒沢は井口を上回っている。それは黒沢清が「完璧な映画作家」であるということを意味しない。黒沢が「完璧な映画作家」であるかどうかは私には分からないが、ただ1つ言えることは、黒沢清が「完璧な映画」を作ったことがあるということだ。井口奈己と黒沢清の決定的な差異はここにある。井口奈己は「完璧な映画」を作った経験がない。


井口奈己の「傑作」を、「完璧な映画」ではないものにしてしまっているのは一体何か。『人のセックスを笑うな』には、完璧な映画になりそうな瞬間がいくつもある。例えば美大の山田先生(温水洋一)の授業中、後ろの方(カメラの近く)でみるめと堂本(忍成修吾)が私語している。みるめがユリの家に泊まったことを聞いた堂本は思わず声を上げる。周りの生徒たちは堂本の方を見るが、すぐに授業が再開する。しかしえんちゃんだけは2人の方を見たままである。次の瞬間、教室全体を写したショットから、えんちゃんが怪訝そうな顔で2人を見つめるクロースアップに移行する。このカット割りは、まさに傑作のそれである。ゴダールやエドワードヤンを彷彿とさせるような挑発的なカット割りの感覚と小津の無為的なカット割りの感覚が同居した、世にも美しいカットの移行に他ならない。

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しかしこのシーンを見る我々は、贅沢な悩み事にかられる。このシーンの、どこか物足りなさはなんだろう。私たちはこの感動的なシーンから、この映画が傑作であることを確信すると同時に、完璧な映画ではないことも確信してしまうのである。映画の終盤を思い出してみよう。酔い潰れたみるめを引きずりながら、えんちゃんがラブホテルの一室に入っていく。ベッドの上で仰向けに横たわるみるめの周りで、えんちゃんが何ものかの気持ちを紛らわすようにぴょんぴょんと跳ねている。するとその内、えんちゃんはみるめの上に四つん這いになる形で覆い被さる。その瞬間カッティングインアクションでカメラは近づく(厳密には近づいているのではなくレンズを変えている)。そしてえんちゃんは眠るみるめにキスしようとする。この後に続くえんちゃんのジャンプ再開も含めて、ジャ・ジャンクーの『青の稲妻』のように乾ききった切なさを捉えた名シーンと言える。しかし私たちは、「完璧な映画」『青の稲妻』に比べて、どこか物足りなさをこの映画に抱いてしまう。

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私たちはカットを割るという行為(演出)に対して、ドラマチズムを求めている。同じ空間と時間において別のカットを挿入するとき、それは何かが変容することでなくてはならない。何か見えないものが変容するとき、私たちはそこにドラマを見出す。例えばオリヴェイラの『アブラハム渓谷』でルイス・ミゲル・シントラが葬式に遅れてやってくるとき、キャンドルに火をつけるレオノール・シルヴェイラの後ろ姿を見つける。シントラのクロースアップからシルヴェイラのクロースアップに移行し、彼女がカメラの方に振り返るとき、そこには静止したショットから別の静止したショットへの移行と、1人の女が後ろを振り返るという2つの小さな動きしかないのにも関わらず、数え切れないほど多くのものが変容している。そして私たちはその2つのカットから、途方もなく大きな運命の流れを感じずにはいられない。先のジャ・ジャンクーの『青の稲妻』においても事態は同様だ。『青の稲妻』には井口のやるような感動的なカット割りはないが、しかし不良青年と歌手の女が1つの車の中でする会話や、彼の兄貴分とその恋人が安アパートの一室でする会話から、多くの変容と大きな運命の存在を感じる。そのドラマ性が、果たして井口の作品にあったか。井口奈己が好んで描く平凡な日常にこそ、私たちが普段見逃しがちな「ドラマ」が隠れているはずなのに、彼女の映画では未だにそれが現れ出ていない。だからこそ端的に言って仕舞えば、井口奈己の映画は傑作ではあるが、『セトウツミ』を代表とするような「どうでもいい映画」の域を脱することができていないのだ。井口奈己が自らを「完璧な映画作家」から遠ざけている原因は、まさにこの一点にあるのである。

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