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古代の名前を理解するための基礎講座3

前回に引き続き万葉仮名のお話です。

万葉仮名の中には、現代の音訓と違う読まれ方をするものがあります。その中でも、人名に多く現れるものの一つが「尼」です。「尼」の字音は、比丘尼(びくに)、尼僧(にそう)などに見られるように尼(に)ですが、万葉仮名としては尼(ね)として用いられます。

たとえば、安尼豆売という名前があったとしたら、これは「安い」こととも「尼さん」とも「豆」とも「売る」こととも関係がありません。すべて万葉仮名で、安尼豆売(あねつめ)と読みます。そして前回言った通り、万葉仮名による当て字で書かれていたとしても、本来の意味が存在します。この場合、姉つ女(あねつめ)が元の意味となります。ちなみにこのケースで「姉」と「女」の間に挟まれている「つ」は、「の」と同じような意味を持つ助詞です。まつげ(目つ毛)、時つ風などの「つ」です。古代の人名では、子つ女(こつめ)、などが確認できます。

先程からしれっと使っていますが、「字音」とは「音読み」のことです。同様に「訓読み」のことは「字訓」と言います。今後頻出する気がしますので、ここで覚えておいてください。

「尼」よりも人名に頻繁に見られるのが「乎」です。確乎(かっこ)、炳乎(へいこ)のように通常の字音では乎(こ)です。この漢字自体にまず馴染みがないと思いますが、熟語においては大体「然」のような意味を表します。確乎=確然、炳乎=炳然です。この漢字が万葉仮名として用いられる時、乎(を)と読まれます。逆に「を」を字音で表す場合「乎」が最もスタンダードであるとも言えます。

「を」は古代の人名に大変よく使われるパーツで、意味は小(を)男(を)であるケースが多いです。資料にある具体的な名前を挙げれば、乎枳美売(をきみめ)なら小君女乎奈利売(をなりめ)なら小成女忍乎(おしを)なら押男が本義であると想定されます。

「を」を表す万葉仮名として「乎」の他に使われるのも、袁(を)烏(を)など、特殊な漢字・読みのものが多いので知識と注意力が必要かもしれません。

ちなみに「曰」という字も「を」と読みます。日(ひ)ではなく、曰(いわ)くの「曰」です。この漢字の漢音は「ゑつ」、呉音は「をち」です。ここから万葉仮名で曰(を)と読むのですが、これが単独で使われることはほぼなく、大半が曰佐(をさ)という形で登場します。なので「曰佐=をさ」と丸覚えしてもいいと思います。ちなみに「をさ」は、長(をさ)もしくは通訳(をさ)を意味します。

非常に広く多く用いられていながら、通常と読み方が異なるのが「意」です。古今、この漢字は「い」と読まれていますが、ことさら万葉仮名として使われる時は意(お)となります。ワ行の乎(を)とは違う、ア行の意(お)を表す万葉仮名です。意伎奈(おきな)=翁意美(おみ)=臣などの例が見受けられます。

また「富」という漢字についても、富豪(ふごう)、豊富(ほうふ)などに見られる一般的な富(ふ)と異なり、万葉仮名では富(ほ)と読むのが普通になります。

用法としては、上の「意」と合わさって意富(おほ)となる場合が多いです。これは大(おほ)を万葉仮名で表記したものとして神名にもよく認められるものです。「意富」という文字列を見かけたら「おほ」と読み、「大」の意味と解釈してほぼ間違いないです。

「里」という漢字はそのまま素直に里(り)と読むことが多いですが、たまに里(ろ)であることがあります。この読み方をする場合、特に「万里」という形で現れますが、これは万里(ばんり)ではなく、万里(まろ)と読むので注意が必要となります。

と言っても、里(り)もしくは里(さと)という用法が多く、里(り)はレアケースに当たりますので、「曰佐=をさ」「意富=おほ」と同じく「万里=まろ」だと思ってもらって大丈夫です。

そして「止」です。結論から申し上げて、万葉仮名としてはこれを止(と)と読みます。これは「止まる」という字訓の一部ではなく、非常に古い時代では字音が止(と)だったようなのです。この止(と)は、と乙類に属し、比止(ひと=人)の形でしばしば資料に出現します。前出の「意」と合わさった秦人部意志比止(はたひとべ・の・おしひと)という名前が典型的なサンプルとなるでしょう。

あとついでに、読み方として特殊というわけではありませんが、「之」は「の」ではなく、もっぱら字音の之(し)で使われます。実際に資料中で見たことはありませんが、仮に古代に優之介という名前があった場合、その読み方は「ゆうのすけ」ではなく「うしけ」となります。

滅多にあるものではありませんが、二音万葉仮名というものもあります。普通の万葉仮名は阿(あ)加(か)佐(さ)多(た)奈(な)のように一字一音なのですが、託良(たから)の託(たか)、信濃(しなの)の信(しな)のように一文字で二音を担うものが存在します。特に「邑」の字は、これ一字で邑(おほ)と読まれ、意富(おほ)などと同じく「大」の意味を担う万葉仮名の一つです。ただこれは応用編に近いので、常に頭に留めておくまではせずとも、出会った時々に処理すればいいと思います。

そのような中でも、人名によく使われるため、覚えておいた方がよさそうなものが「足」です。古代人名中の「足」は、大半が中臣鎌足のように足(たり)として使われます。しかし「足尼」と書かれるケースだけは事情が違います。「足」の字音は「そく」、「尼」の字音は上記の通り「に」ですが、「足尼」に合体すると読みは足尼(すくね)となります。「すくね」はそのほとんどが「宿祢」と書かれますが、「足尼」と書かれることも稀ではありません。

ちなみに「宿祢」と「足尼」では意味が異なるという説もありますが、とりあえず名前を読む上では気にする必要はないでしょう。また「すくね」は「宿祢」「足尼」といった万葉仮名表記の例しか残存しておらず、その意味については度々議論を呼ぶところですが、少兄(すくなえ)がなまったものという説があるそうです。少彦名(すくなひこな)という神名や、古代に少麿(すくなまろ)という人名が散見されることから、古代では「少(すくな)」に何かプラスの意味が見出されていたと考えられます。

最後に、まるで問題集の最終設問に使われることを見越して付けられたのかと疑うレベルの人名を挙げて〆めとします。

六国史の一つ『続日本紀』には小塞近之里という人物が登場します。「小塞」は「をせき」と読み、簡単な表記をすれば「小関(おせき)」となるものです。彼の下の名前「近之里」は、専門家の中にすら「ちかのさと」と読む人もいますが、上記の法則に則れば、自ずから本来の読み方は見えてきます。

まず「近」という漢字は漢音が「きん」で、呉音が「こん」です。そしてこの呉音は、なまって「この」となることがあります。近衛(このえ)の近(この)です。そして「之」は上記の通り之(し)であり、「里」も里(ろ)である可能性があります。加えて「このしろ」という魚が古代から日本で知られていたことを考慮すれば、導き出される読みは、近之里(このしろ)となります。ちなみに「このしろ」とは、現代では「鮗」と漢字表記されることの多い、ニシン科の海水魚です。

【今回のまとめ】
・ある漢字が万葉仮名として使われる場合、一般的な字音と異なるケースがある。とは言え、典型的なものは固まっているので、代表的なパターンをいくつか覚えておくだけでも、古代人名がかなり読みやすくなる。
・“字音”とはいわゆる“音読み”、“字訓”とはいわゆる“訓読み”のことである。

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