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自分の中の自然

今日の雪は、羽のようにふわふわとしていた。軽いから、いつもよりゆっくり落ちてくるのが分かる。スローモーションみたいで、ずっと見ていても飽きない。雪とひとくくりに言ってもいろんな種類があることは雪国に暮らして知ったことだ。

たまにはひとつの気づき(トピック)=ひとつの記事、ではないものを書いてみようと思う。ひとつにしぼろうとしたくない気分なので、、つらつらと、最近のわたしの頭の中を。

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雪とコロナでまたもひきこもる冬が来た。そういえば毎年、この時期に本や映画などをじっくり味わうことが多い。私にとって欠かせない季節だ。

あまり漫画を読んで育ってこなかった私が、「バガボンド」を読んだ。アパートをシェアしている人の私物だったのでなんとなく年明けに読み始めた。宮本武蔵の、戦いの旅の話。絵も描写も、いつも私が好むものとはかけ離れており、苦手としている血まみれの斬り合いシーンがたくさん出て来る。ただ、ハッとする名言がいくつかあり、最後の方の物語にはものすごく感動してしまった。

その中で特に、最初は「人より強くなりたい」という「自我」にとらわれている武蔵が、苦しんで戦っていく中で、自分の奥底が宇宙や森林とつながっている感覚を覚えて楽になっていく話がすごく興味深かった。「見るともなく全体を見る」という言葉もあった。

ちょうど年末に読んでいた本「利他とは何か」でも、中島岳志さんの言葉で「利他とは個人の意思を超えたコントロールのできない大きな力」という描写があった。「他人に良いことをしよう」と意識してそうするのではなく、思いがけず結果的にそうなってしまうのが「利他」だと。

ある種「仏教」の根本の考えに近いこの、自分と自然の境界はあいまいで絶対的な自分などいないという考え方に惹かれる一方、今の社会は個性とかスキルとか「自分」を意識させられ評価されすぎているよなあ、と感じる。この話は2,3年前から私の中でホットなのだけど、だからといって自分の意思もスキルもある程度わかっておかないと、人生はスムーズに進まない。

「自分の中の自然」にまず気が付くことが大事かもしれない。「評価される自分」じゃなくて、「自分しか感じられない自分」。直感にも近い、説明のできない欲求や違和感。それは、「意思」とはちょっと違う。頭というよりは身体や心が先に反応するもの。本能的な部分。恋したとき、出てくるかもしれない部分。

その存在を認識して、そういう自分の声にも耳をすませられるようになってから、「まわりの大きな自然」に目を向ける。そうすると、自分の中の自然と外の自然が共鳴したりつながっていることに気が付く。自分と外が矢印で向かい合っているのではなくて、ひとつに溶け合っている。

そういう感覚は、ずっとSNSを見ていると得られにくい。でもわかっちゃいるけど見てしまうのがSNS。目に入った情報が頭の中を無意識に占有していって、説明できないものを感じる「余白」を埋めてしまう。

最近ちょっとだけピアノを弾いている。あと、この間ははらっぱラジオのジングルを友人の協力を得て一緒につくってみた。音を録って加工するなんて、自分至上初めての経験で、とても興奮した。これも私の「余白」を広げただろうか?


作品鑑賞と会話は、連想ゲームだ。同じ作品を読んでいても、誰が読むか、どのタイミングで読むかでどこを重要視するか、なにとなにをつなげるかが違う。「バガボンド」と「利他とは何か」をつなげた私は、このあとなにを連想していくのだろう。脳の余白を広げるような時間の使い方をしたいなあ。

とりとめない駄文でした。






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