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コップの底のような夜

そうやって だれもがいなくなる夜を コップの底のようにすごした

食器と食パンとペン

半分くらいもうそらで言えるのではというお気に入りの短歌の本「食器と食パンとペン」の中のひとつの短歌。
初めて読んだころ、22歳くらいのときはコップの底で本を開くイラストがかわいいな~という印象だったこの短歌。
29歳の秋、コップどころか沼の底のような夜が何度もあって、この短歌の表現をふと思い出したのだった。

つい先日もそんな夜があった。
たしか、毎日寒波で予定が立たない週。外は寒くて雪が積もっていて、おまけにトイレの調子が悪いし、生理前。嫌なことを思い出して、LINEグループの誰かの発言がなぜか刺さって抜けなくて。逃げ場である銭湯も休業中。

むしゃくしゃしてとりあえずいきおいにまかせてスーパーに来たけど、なにも食べたいものがない。なにも食べたいものがない状態で歩くスーパーというのは本当に絶望だ。歯をくいしばるような気持ちでビールや野菜を買い物かごに放り込む。タバスコをずっと買おうと思って居たのを思い出して、それもかごに入れる。
外に出ると雪がちらついていて、フードを深くかぶってアパートまで歩く。まだ夕飯づくりには少し早かったので、駐車場で車の雪をどかしてみる。一瞬元気になったような気がしたけど、部屋に帰るとストーブの灯油切れのピーッという音が鳴り響いて、また元気がなくなってしまった。洗濯物も干すのを忘れていた。
なんだか涙がこみあげて、息をすいこむように泣いた。したいことすればいいとか、好きなもの食べなとか、そういう元気になるはずの言葉は、自分の中になにか「したい」とか「好き」っていう感情がないときには役に立たないと思った。食べたいもしたいもなにもない。なにも思いつかない。
もう、すがるような思いで、なにかしなきゃと思って、とりあえず米を水に浸した。食べたい、じゃなくて、もうこれしかできることがない、の米炊きは初めてだったかもしれない。
それでもいくらか気分はマシになった。さっきスーパーで買ったサーモンの麹漬とごはん、それだけを食べる。この麴漬がめちゃくちゃアタリで、美味しかった。
シャワーを浴びると、身体の温度があがって、またさっきのどんぞこが嘘のように気分が少し上を向く。からだってうまくできてるなあ、と思う。

誰にも必要とされていないような気がする夜もあった。その日は友達に送ったLINEがすぐ帰ってきたおかげで救われた。
そういう夜、ああ今日は「コップの底のような夜」だなあとあの短歌を思い出して、コップの底にいる自分をイメージする。ほんの少しだけ自分を俯瞰して見れる。なんかかわいいな、と思う。

私たちはもっと「これしかなかった」で生きているんだなと思う。
たくさんの選択肢の中から吟味して選びましたなんてことは少なく、
「これしかなかった」からここまできたという連続なのかもしれない。
これしかなかった、ときの気持ちを知っていること、そのときに米を炊くことができたことを私は大切にしていきたい。
小さな短歌が少しだけ今の世界を違う風に見せてくれることも、覚えていたい。


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