阪神・淡路大震災の思い出

みなさんこんにちは。ふと思い出したので25年前の阪神大震災について書きたいと思います。

1月15日に地元での成人式を終えた私は、16日の昼ごろ大学のある西宮市に帰ってきました。この時期は大学の試験期間であった為、試験勉強を終え、眠りにつきました。

そして、それは突然訪れました。

物凄い轟音と揺れ。なにが起こっているかわかりません。私は布団をかぶり身を竦めました。その上に何かが落ちてきたように感じました。

その揺れはとにかく長い。目をつむり恐怖に怯える私の脳裏によぎったのは、B29の空襲シーンでした。

やっと恐怖の時間が過ぎ、自分が生きていることを実感しました。しかし起き上がれない。何かが布団の上にあり、起き上がることができません。

私は叫びました「助けてー」と。布団の中にいるのでその声は誰にも届きません。何度か叫びましたが結果は同じです。

しばらく何も出来ずにいましたが、あることに気づきました。布団の左横にコタツが置いてあり、その中から抜け出すことができるかもしれない。最早、その方法しかなかったので、非常に狭い中なんとか這い出ることができました。

助かった。

とにかく状況を把握する為に部屋から出よう。部屋を出ると、そこに暮らす先輩達が数人部屋から出てきていました。

私が住んでいたのは、いわゆる下宿で、2階建の建物の中に14ほどの部屋、トイレやキッチンは共同という古い建物でした。

4回生の先輩に何があったか尋ね、やっと状況が理解できました。これは大地震であると。この時は完全に停電しており、まだ6時前だったので周囲は暗いままでした。

下宿に住んでいる全ての学生の無事を確認できたので、数人で外に出て周囲の状況を確認することにしました。しばらく歩くと、よく利用していた定食屋が倒れていました。高い所に立っていて、落ちていたといった表現が正しいのかもしれません。建物自体は潰れてはいなかったです。それ以外は変わった様子は見受けられなかったので、一旦下宿に戻ることにしました。自分の部屋の状況もよくわかっていなかったからです。

部屋に戻って唖然としました。布団の上には食器棚が倒れています。テレビを置いていた低めの棚以外、ありとあらゆる物が倒れています。冷蔵庫、ギター、CDコンポ、テレビ、パソコン全て倒れているか落ちているかしていました。

もうどうして良いかわからず、途方に暮れていましたが、どうやら電気が復旧した様子です。電話機やテレビの電源が復活しました。家族が心配なので電話をかけようと試みましたが、全く繋がりません。何度か試して諦めました。

お腹が空いてきたので、下宿の向かいにあるローソンに行きました。すごい人の数です。食べ物は売り切れてほとんどありません。これだけの人数ですから当たり前です。かろうじてハムが残っていたので、それとコーヒーを買いました。

部屋に片付けをしていた時、電話がかかってきました。当時つきあっていた彼女からでした。その後しばらくして、母親からも電話がかかってきました。まだ状況がよく掴めていなかった私は、母親に、「地震大丈夫やったん?」と聞きました。その時はまだ兵庫県が震源地であることがわかっていなかったからです。逆に、「無事やった?そっち大変なことになってるよ」と言われました。

電話を切った後、テレビをつけました。ここで初めて兵庫県が震源であること、死者が出ていることを知りました。その時点での死者数は100人台だったと思います。長田区の火災の映像が映っていました。

部屋にいても、片付けを頑張る気力が起きなかったので、外に出てもう一度状況を確認することにしました。早朝に歩いた場所とは違う方向に歩いていくと、一台の消防車が止まっていました。火災が起こっている様子もなく、不思議に思った私は、そこに集まっている人に問いかけました。話を聞くと、建物が崩れて人が埋まっているという返答が返ってきました。こんな身近でそのような事が起こっているとはとても信じられませんでした。

そういえば学校の試験はどうなるんだろう?と思った私は学校まで歩いて行きました。普段は原付で通学しているのですが、運悪く修理に出していました。とはいっても、原付で1分で着く距離なのでたいしたことはありません。

校舎を見ると、所々に張り紙がしてありました。電車が動かず、生徒も教授も通学できない為、後期の試験は全てレポートによるものとするという内容でした。これで試験の心配はなくなりました。

さて、部屋に戻った私は少しずつ片付けを進めていきました。食器棚は重い為、そのままにしておきました。そうこうしているうちに、友人が訪ねて来ました。私が「おう、無事やった?」と聞くや否や、彼は衝撃的な言葉を発しました。

「サトシ死んだ」

私は一瞬何を言っているのか理解できませんでした。そして言葉を失いました。

私は一回生であった一年間、ある部活に入っていました。その部で特に仲良くしていた友人の一人がサトシでした。私は部を辞めたので、以前ほどの付き合いはありませんでしたが、近くに住んでいた為、道で出会うことは多かったです。

最後に彼に会ったのは、下宿前のローソンの駐車場でした。よく見ると原付が最新型になっていたので、私が、「原付買うたん?めっちゃええやん」と言うと、「いいやろ?こないだ買ってん」と笑顔で答えた彼の姿を今でも鮮明に覚えています。

部屋の片付けはそのままに、サトシの遺体が安置されているという、西宮市立中央体育館まで歩いて行きました。私が着いた時には、既に数人の部活の仲間が暗い面持ちで集まっていました。

その時の状況は薄っすらとしか覚えていないのですが、体育館で処置の施された遺体は、最終的に、隣接する武道館に安置されました。どれくらい待ったかわかりませんが、サトシの遺体と対面できました。遺体は毛布に包まれていて、その姿はベッドで寝ていた時の姿そのままでした。体は左向きになっていて、目はつむったままです。建物の一階部分が倒壊したことによる圧死だったそうです。

係員の人に、遺体を武道館まで運ぶのを手伝ってください、といわれたので快諾しました。但し、重いので数人で持ってくださいと申し添えられました。私を含む4人で持ち上げたのですが、確かに重い。人は死んだらこんなに重くなるんだということを初めて知りました。

武道館には等間隔で遺体が並べられており、皆毛布に包まれています。その傍らにはそれぞれの家族や友人と思われる人が遺体を囲んでいました。百体近い遺体が安置されていたと思います。

無言で遺体を眺める人、すすり泣く人、遺体に話しかける人、武道館は異様な雰囲気に包まれていました。私たち部活の仲間は遺体を囲んで3時間程過ごしました。皆無言でした。

私は遺体を目の前にして思いました。人間ってこんなに簡単に死ぬんだ、と。

夜7時くらいになると、食料の支援が届いたので取りに来てくださいと、係員から案内がありました。おにぎりを数個いただくことができました。朝からハムしかお腹に入れていなかったので、有り難くいただくことにしました。

それからしばらくして、皆家に戻ることにしました。この時も頻繁に余震が起きており、古い下宿で過ごすのは少し心配でした。

下宿に戻ったののはよかったのですが、全く片付いていない為、寝る場所がありません。布団の上には食器棚が倒れたままです。思案に暮れていましたが、廊下で三回生の先輩に出会った時に、怖いし外で過ごしませんか、と持ちかけました。

とりあえず学校に行こう。あそこなら安心です。

一月の真冬なのでズボンを二枚重ね着し、上着は何枚も重ねて外に出ました。二人で歩いている途中、今までで最大の余震が襲ってきました。思わずお互いの肩に手をかけました。本当に怖いと咄嗟にそういう行動になってしまうようです。

学校に着くと、電気の点いた建物がありました。中にはおそらくサークルの仲間同士で集まった人々がいました。しかし、我々を入れてはくれません。心の狭い奴等やなあと思いながら他の場所を探しました。

ここなら安全だと見つけた場所は、大学のキャンパスの中心にある広い芝生です。夜露に濡れた芝生に寝るのも嫌なので、その辺に立てられていたサークルの木の看板を外し、ベッドにすることにしました。そして就寝しましたが、途中何度も目が覚めました。足が冷える。靴下を2枚履き、厚いブーツを履いてきましたが、それでも寒い。

寒さに耐え、なんとか朝を迎えました。一旦下宿に戻り、これからのことを考えることにしました。

昼頃になると吉報がもたらされました。西宮北口から梅田までの阪急電車が復旧したとのことでした。梅田まで出られれば実家に帰ることができる。幸いにも成人祝いでもらったお金が財布にあります。私は実家に帰ることを決意しました。

西宮北口までけっこう距離がありますが、頑張って歩きました。途中、ガスの匂いが充満している所や、倒壊した家屋が多数ありました。なんとか駅まで到着し、梅田まで出ることができました。

大阪に着いて呆気に取られました。皆普段通り買い物等を楽しんでいる。兵庫県との落差が違い過ぎる。災害は実際にあってみないとその大変さは実感できないし、他人事なんだなとつくづく思いました。

1カ月近くを実家で過ごしましたが、一つだけ心残りがありました。サトシの葬式に参加できなかったことです。

毎年1月17日のニュースで大震災の追悼式のニュースが放送されますが、自然と涙が流れます。いつか追悼式に参加してみたい。この記憶とあの地震の揺れは一生忘れないでしょう。


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