見出し画像

納得スピード法違反

とあるリゾート・ホテルの宿泊者の老若男女(と小型犬)は、ホテル側の厚意で、知られざるプライベート・ビーチに案内される。なんとそこは諸々のアレで時間の速度が歪んでおり、浜辺での1時間につき外部での10年に匹敵する時間が流れ去る。秘密の楽園に入ったヨロコビもそこそこに、地上の竜宮城ともいうべき亜空間の異変に気づいた彼らは脱出を図るが、悲しい哉、手立てが見つからぬまま時間は吹き飛び……映画『OLD オールド』はこのような筋書きで駆動するホラー絵巻だ。我が身に置き換えて考えたらナイアガラ失禁もやむなしの戦慄を覚える。日頃縋っている般若心経の文言を唱える余裕もどこへやら、だろう。だが、そういう気持で脂汗を垂らしつつ画面に食い入っていると、たびたびアレッとすっ転ばされる。みんな恐ろしく物分かりがいいんである。生老病死、その目まぐるしい流転を早々とスンナリ受け容れてしまい、あろうことかたまに白い歯を覗かせる余裕もみせる。肉体を伴った俳優が演じている以上「そういうもんスカ」と納得を迫られてしまうところもあるが、それでも腑に落ちないナニカがある。手のひらの雫を払って落とすような素早さで懊悩とオサラバし、ああも冷静に現状を認めうるものだろうか。無数の非・悶々の事例に出くわし、かえってこちらが悶々としているうちに終劇を迎えた。エー。

映画やドラマといった映像作品は、撮影した動画素材をそのままのデュレーションで用いる必要はない。大幅にカットしたり、ショットの順序を大胆にシャッフルしていい。えんえんと同じような映像が表示されているのを眺めるのは苦痛である(アピチャッポンやタルコフスキーの作品などはその表現ならではの効果を狙って成功しているわけだが)。したがって、悶々の解消に費やされる時間とて実世界と同じ幅である必要はない。しかし! そうは云っても、悶々の解消に至るプロセスはある程度描かないと人間味が薄れるし、まして、一般人が恐るべき事態に巻き込まれるホラーであることを身上とする『OLD』ならばなおさら心理描写大事である。難局をスイスイと乗り越えられると、「成長」や「適応」や「変化」の語では到底片づけられず宿泊客みんな機械人間にみえてくる。多分そういう意味でのホラーを製作陣は望んでいないだろう。

うしろシティのネタ「5分の遅刻」は、私が密かに掲げる「納得スピード法」の問題を的確にコントに昇華している。新米会社員カネコは会議に5分遅刻したことで、会議室内の無数の異変が「決定事項」として承認される現場に立ち会い損ねてしまう。だから彼の目には一切がオカシク見えるし、その一つ一つのオカシサが度外れていて、逐一彼を惑乱させる。カネコの入室と同じタイミングで物語を鑑賞しはじめたわれわれ視聴者も、彼と同様に、5分では処理しきれないはずの情報量の殺到にオカシミを覚える。しかし、カネコの同期アスワや、会議のほか参加者は違う。「そーいうもんだ」と泰然自若としている。困り果てたカネコが泡を食っていてもアスワは「シーッ!」「もうその話終わったからーッ」と叱りつける。あくまで彼は冷静なのである。5分前の天変地異はあくまで「5分前」のこと、過去完了形のイヴェントに過ぎない。「たくましい」と褒めて済ませられたらいいのだが、そうも行かない。納得スピード法違反なんです。

『OLD』鑑賞後はつづけて『グリーンブック』を観た。
ピアニストのドン・シャーリーと、運転士として雇われたトニー・リップはそれぞれに人種由来の葛藤を胸に抱えながらも演奏会を興行するべく合衆国南部を目指す。しかしその地は黒人差別が深刻で……この作品は、人種といったカテゴライズにまつわる人間心理の頑迷さとしなやかさ、その二項がせめぎ合う過程が映画という時間スケールにぴったり合っていた。しなやかに、つまり偏見のわだかまりなく自在に立ち回れるように人間はできていない。しかし他方で、絶対不変のキャラクターや人格といったものを想定するだけでは人間は語り得ない。因果関係のなかで柔軟性を変えていきながら、人間は変わるし、同程度に変わらない。本作は、人種問題解決の決定打となるものではない。また、安易に「解決」のヴィジョンを想定して啓発に努めることもしない。ごく限られた人びとに一貫してフォーカスし、流動/不変の渚のごとき人間の実相をただただ伝えるに過ぎない。人間が頑固なまでに素直であるし、素直なまでに頑固である事実を淡々と照らす。同時には易々と受け止めにくい二項を、そっくりそのまま嚥下するのにちょうどいい頃合いを迎えた瞬間、エンドロールが流れはじめた。



この記事が参加している募集

多様性を考える

映画感想文

I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)