さよならから始まる感想戦
知人との別れ際、きまって私は往生際が悪い。
相手が地下鉄に乗るというならば改札まで送る。
改札を越えてもその背が見えなくなるまで佇む。
相手が自転車で帰るというなら駐輪場まで伴う。
ペダルを漕ぎ出して加速し遠ざかる背を見送る。
相手がバスで帰るのなら発車まで停車場で待つ。
発車しても赤信号に阻まれるまで走ったりする。
相手が歩いて帰るようならなるべくついていく。
じゃ俺こっち、を宣言されたときはじめて退く。
相手が飛んで帰ると言い出したら原理を教わる。
なるほどそんな方法があるかと息巻いて楽しむ。
煙たがられることも少なくない。
だが、それでもさらりと別れられない。
来たるべき「感想戦」の戦火が怖いのだ。
後回しにしたくて、つい相手を引き留める。
私の感想戦の舞台は会話である。
開始から終局まであらかた記憶しているため、再現の精度には事欠かない。私の言ったことが相手の顔つきに引き起こした波紋、そしてそのあとの言動を微細に憶えている。目つき、呼吸、身振り手振り口振り、喉の鳴る音、貧乏ゆすり、沈黙。
話し相手がそばを去ると、ゲーム結果が確定する。
もはや待ったも訂正もきかず、急速に冷却される。
現在進行形であることをやめ、ひとたび振り返りうる対象となろうものなら、私は必ず即座に反芻する。
対局中の着手の善悪。
すなわち──ああいう発言はよくなかった。
その局面における最善手。
すなわち──ああ言えばよかった。
さよならが怖いのは、たいていくよくよするからだ。
会話ゲームの全てを均等な濃度で憶えているかというとそうではなくて、失敗や失態、失策、失言といった失点のかずかずがより鮮明に刻まれている。
話せば話すほど失点のチャンスは増えてしまうものだが、数時間にもつれこんだゲームをせめて引き分けに持ち込みたいと焦り、引き留める。
「終わり善ければ」云々。
「大事なのは過程であって」云々。
「メラビアンの法則によれば効果はあらかた第一印象で決まっており」云々。
まことしやかに言い伝えられることわざが鳴り渡る。
決まってしまうことを恐れ、決まってしまったことを悲しむ。そうして時々ショートを起こし、隠れる。
失点というからには得点のことも考えなくてはだめか、と少し思ってから、その発想の狭さを感じる。
二項対立の限界は、現代哲学の説くとおりだ。
必ず得点になる一手と、必ず失点になる一手しかないとすれば、なにかが気持ち悪い。なんでか息詰まる。
気持ち悪いのはなにか。
息詰まるのはなんでか。
思い出すのは、ドラえもんのひみつ道具だ。
その名を「正直太郎」という。
この人形は、手にもつと「正直」な胸のうちを勝手に代弁するという代物である。スネ夫はジャイアンへの不満を漏らされ、のび太は通行人のマダムにおぼえた嘲りを漏らされたり、ドラえもんの顔への揶揄を明かされたりする。いずれも失点を余儀なくされる。
ただ、この人形がなかったら言わなかったかもしれないということを忘れてはならない。ジャイアンの欲張りに日頃から腹を立てていても、それでもはっきりと言わないでおこうと張り巡らせていた熟慮や遠慮を、正直太郎は無視している。なにかをしようと心に決めるのと同じくらい強く、なにかをしないでおこうとした心配りを無視し、暴露に踏み切った。
あとから悔いている行為も、多少は無知だったり暗愚だったかもしれないが、当時なりの必要や考え、逡巡を経て、思いつく限りのベストとして発露したもののはずである。しておけばよかった、とは、その最中も頭をかすめていたが、あえてそうはしなかった。悔いる可能性をある程度に覚悟し承認しながら、私は相手と話していた。そのとおりに為したという観点からすればそのプレーは得点を挙げている。つまり、完全な失点に思われていたあの挙動は、たんに社会的な失点と個人的な得点とがごったに混じりあったものだったのだ。
なにもかも自由に決められた物事ばかりではあるまい。ジャイアンの腕力のように、強大な状況に迫られてしたという事柄でもあったろう。完全な自由はなくて、ゆえに後悔は原理的に滅びない。
ひとりになり、結果が確定してから脳内感想戦が始まるたびに、べつのよりよかった可能性を夢想して己を酷烈に責め苛んでしまうが、私なりに「正直」であろうとした事実を叫びつづけたい。
思い上がるな、未来人よ。
改札の向こう、雑踏に紛れゆくあの人を目で追いながら、さっそくぎりぎり歯軋りしながら、私は呟く。
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