見出し画像

呼称について感じている二、三の事柄

「社長」

古本屋でバイトするぼくは階下に降りてきた店主の姿を認め、声をかけた。
以前からそれとなく気になっていたことがあったのである。

「んん? なんだい」

親戚のおじさんのイデアのような平生の佇まいを崩さず、彼は微笑んだ。
接する者のA.T.フィールドを中和するような、キラーおじスマイルである。
店内に客の姿のないのを確認して、話を切り出す。

「ぼく、社長の苗字は分かるんですが、そういえばお名前を知らないなって」
「おお、うんうん」
「お名前の漢字までは知ってるんです。タダシと読むんですか、マサシですか」

すると社長がたちまち、ニタァ、と会心の笑みを浮かべた。
アこれは十中八九、いや、十中十十、腹に悪だくらみを潜めているときのツラ!

こちらに身構える隙を与えず、彼は己の顎に人差し指を当てた。

曰く、「ンー、なににしよっかなぁ!」

タダシかマサシか、それが問題——とばかり考えていたぼくは浅はかだった。
蕎麦を注文するような軽快さで「じゃ、ジェームズで!」と社長が笑ったのだ。
そのあと正しい読みを教えてもらったが、突如降って湧いた英名には勝てない。

そういうわけでぼくは、あの日から彼を敬称つきで「Mr. James!」と呼んでいる。

呼ぶと、おじさんイデアの高品位ボイスで「あいよォ!」と応えてくれる。

スバラシキ長閑なバイト日和……ちなみに社長はぼくを「若旦那」と呼ぶ。




浪人時代から現在まで、まずまずの人数に「二郎」と呼ばれている。

予備校の日々を共闘した友人イチガセキは初めぼくをセンセイと呼んでいた。
が、モノホンの先生が跳梁跋扈する校内で使うのはさまざま差し障りがある。
それに、センセイのわけはぼくが丸眼鏡を佩用しているからで深い理由はない。
成績が振るわないときにセンセイと囁かれるのは多大な心労がある。

というわけで、次善の策の「二郎」が採択された。

『風立ちぬ』の堀越二郎が由来である。
丸眼鏡、口調、気質、向学心、その他あれやこれや、似ているね、ということで。
当代随一のジブリ愛を自負するイチガセキが認めるほどの相似だそうだ。

「二郎さん」「二郎くん」
本名には似ても似つかぬ渾名で同期に呼ばれ、いくぶんいい気になりながら進学。
イチガセキや予備校の戦友のほとんどが受験に失敗するなかぼくだけ受かった。

同期がほぼ全滅なのだから誰もぼくを二郎と呼ぶ必然性がない。
ないのだけれど、自己紹介のたびに「二郎って呼ばれていました」と話すものだから学内でも少々普及した。こちらの痩躯を怪訝そうに見つめて「ジロリアン?」と訊ねたり、いくぶん声を潜めて「二浪したの?」と囁く方がいた。「シソンヌ?」もあった。

否! 堀越二郎の「二郎」なり。いい気はつづくよどこまでも。

そういえば、イチガセキ。
市ヶ関? 市ヵ関? 一ヶ関? 一ヵ関? どれだっけ。




8月、夏も盛りの時季にぼくは上洛した。

紅茶一杯の値段を嘆くような貧乏旅行の身分を見かねて、2泊3日の日程のあいだのふた晩、二人の御仁がぼくをお宅に招いてくださった。2日目は京都大学の人類学の先生のお宅に寄ったが、1日目はnote界の文豪ky.o9サマの邸宅に泊まった。

コメント欄で字数制限ぎりぎりまで念入りにやりとりする間柄であったわれわれは、互いの記事を讃えあう交わり以上に、文科系を学ぶ、好奇心の近似した同い年という共通項ゆえの同朋意識があり親しくなった。

上洛を控えたぼくがサポート機能を用いて不躾にも連絡先を送りつけると、ky.o9サマは寛容にお返事をくださり、きっと会いましょうネということに決まった。
メールをやりとりする日々も、ぼくが嬉しさのあまり肩の力を抜けず二字熟語の花束を贈るのに対し、彼は五山送り火の体験記をギリシャ神話もかくやという勇壮にして絢爛な筆致で報告してくださるなど、もう隅々までカッコいい。

I.M.O.様ッッ、お待ちしておりますッッ!!」
アツい口調で、丁寧に「様」まで添えてくれる光栄に涙しながら、訪問までの日を指折り数えていた。

推しに拝謁するファンのように頬を赤らめるぼくと合流した彼は、二軒の居酒屋に連れて行ってくれた。席上ではやはり互いのnoteの記事を起点としつつも、文章、映画、読書、絵画、大学、仕事、今後、関西、故郷、云々、と、多岐に亘る主題を縦横無尽に語らった。
ぼくが一杯飲み干すあいだに彼が五杯、というように飲む量はまるで違えど酒杯を交わしたことがやはりトークに拍車を掛けたのだろう。
どうやら互いに相手のファンであり、相手の織りなす文体には敵わないと観念していたらしいと気づいてからは、たちまち緊張がほぐれた。

「イモ君」

さて一晩の滞在中、彼が親しみを籠めて用いてくれた呼称が、とても嬉しかった。
憧れの人物からいっぱしの物書きとして認められた充足感を噛み締めたのだ。
noteのコメント欄やメールではなく肉声で呼びかけられると、数等倍沁みますね。

「ワイエムオーっぽい」ってことで十秒ぐらいで決めたI.M.O.名義。
そして頑固一徹、ひたすら二字熟語の煮凝りのようなnoteであったかもしれないがこつこつ続けてきた甲斐があった。
酒杯を重ねているときも、部屋で寝っ転がって湯浅政明作品を鑑賞しているときもソレは感じたが、いちばん強度を帯びた喜びはなんといっても「イモ君」から。

エーky.o9様、滞在中はこまごまと面倒を見てくださりありがとうございます。
流転する生活・心理・社会状況下でありますが再会の日を心待ちにしております。

イモ君は引き続き筆を揮います。



I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)