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墓をしまいにまゐります

空港の脇を通る道が、香織は好きだ。
どこまでもどこまでも真っ直ぐに伸びて、このまま北海道に行けるのではないかと思ってしまう。

好きなCDをかけながら、ただアクセルを踏む。信号の少ない直線道路は、香織が自分をリセットするのになくてはならない場所になりつつある。

イライラすることがあると、こっそりこの道にドライブに来ていることを、夫は知らないだろう。

今日は、逆に夫がイライラしている。

香織が運転を申し出たが、長距離ドライブは男の仕事だと思っているフシが夫にはある。
普段は感じないのだが、ごく時々、古臭い観念が顔を出し、時々、面倒だと思う。

顔には、出さない。

香織が住む県庁所在地から、空港のある街を抜け、県内最北(ではないが、かなり北)の地に、今日は向かっている。

夫の家の墓が、その地にはある。

その街には、結婚した20年程前に、一度だけ連れて行かれた。
あの時はまだ、夫の祖父母も健在だった。

早い結婚を決めた小娘だった香織は、何の礼儀も風習も、この地の言葉すらわからなかった。
田舎では少々規格外だったのではないかと今なら思うが、祖父母の田舎訛りが聞き取れなくてキョトンとする嫁は、歓迎され、可愛がってもらった。

とても狭くて急勾配な、古い木の階段がぎしぎし音を立てる祖父母の家には、香織は結局、あの日一度しか訪れていない。

夫は冷たい人間ではないのだが、家族とか親族付き合いというものに興味がない。
すぐ近くにある自分の実家ですら、催促をしても半年に一度も顔を出せば多いほうだ。

当然、年賀状ですら自分では出さない。
当初は香織の仕事だと思ってやっていたが、子育てに右往左往していた時期に出しそこねてしまった年があり、そこから不義理を重ねている。
駄目な嫁である。

駄目な嫁と駄目な息子は諦めたのか、たまたま県外に転勤している時だったからか、祖父の葬式は来なくていいと義父に言われた。
思えば、義父もそういうところ、田舎風の考えが薄い人なのだろう。
祖母の葬式にいたっては、いつだったのか、知らされたかも記憶にない。
赤ん坊が子供に育ち、香織が我に返った時には、祖父母のあの古い家はもう処分されたと聞いた。人手に渡ったのか、取り壊されたのだろう。
一度しか足を踏み入れなかった、あのぎしぎし言う階段の先の部屋がどうなっていたのか。
駄目な嫁には、階段の軋む音しか記憶がない。



いつものドライブコースを抜け、見慣れない山道に差し掛かる。
真っ直ぐだった道は、少しずつ、左右に腰を振り始めた。
広かった青空はそびえる木々に縁取られ、パセリに追いやられたメインディッシュのようだ。
太陽が肩身狭そうに香織を見下ろしている。

「田舎は嫌だな」

夫が、ポツリと言う。


夫は田舎に生まれ、田舎で少し育った。
銀行員の義父の転勤で、県内をあちこち移ったという。
転校生という、恰好のいじめのターゲットだったのか。本人は語らないが、昔、義母がポロリとこぼしたことがあった。

夫は、東京の私大に進んだ。香織とはそこで出会った。
田舎に戻って就職すると聞き、付いてくることを決めた。
まさか田舎が嫌いな人だなんて思いもしなかった。
しかし、20年の結婚生活で夫の昔の友人を紹介されたことは一人もなく、たまに呑むのは東京で、大学時代の友人ばかりだ。

香織も、若い頃の友人とは、ほとんど付き合いがない。
親戚にすら年賀状を不義理するズボラな香織は、友人関係も切り捨てて生きてきた。
夫が転勤する度に、ほんの数年の付き合いの知人ができ、引っ越しと同時に(きっかり1年で越した街もあった)アドレスから消えていき、いまや名前もうろ覚えである。

この街で暮らし始めてからも、パート仲間だけだった知り合いが、ママ友だけになり、また職場の仲間だけとなっている。
自分の人間関係も、夫のことなど笑えないほどに希薄なものだ。
しかし、困ったことなど一度もない。
それぞれのコミュニティでの義務を果たして笑顔で挨拶さえしていれば、必要な情報は手に入れられる。

がやがやと喋り騒ぎ呑むのも楽しいが、基本的に夫も香織も一人の時間が心地よい人間なのだろう。
同じ部屋に居ても、お互いに違う本を開いて一日中黙っていることも少なくない。



夫とは、若い頃に何度か旅行に行った。
それこそ田舎の風景しかない場所に、転勤で住んだこともある。
だから今更、夫が田舎の風景を見てイライラするのだという新発見に、香織は驚いていた。

綺麗だね、空気が違うねと言いながら花を愛で、ソフトクリームを食べたのは、この人とだった気がするのだけれど。
他人事のように考え、香織はふっと可笑しくなった。

「田舎、嫌いなんだ?」

「嫌いだね。たまに遊びに来るならまだ我慢するけど、一生住むとか考えられない」

真っ直ぐに前を見据えて、夫は答える。
いつも自分の好き嫌いを前面に出さず、悪く言うと人任せのようにすら見えることのある夫に、こんな強い意志があるなんて。

夫の嫌う「田舎」は、おそらく人間関係の窮屈さだと思う。

義父の転勤で暮らしたある街では、職場の上下関係の他に、由緒正しき住人かどうかのカーストがあり、とても嫌な思いをしたと、義母が何度かこぼしていた。
その話を聞いた、その場に夫はいなかった。
香織はただ、近い現代とは思えない義母の昔話に相槌を打ちながら、お茶をすすっていた。

夫の会社がその街に関係なくて良かったなぁ、と呑気に考えていた香織は、今更ながら、もしもそんな閉鎖的なコミュニティに放り込まれたらどうしようと震えあがる。
子供が小さければ小さいほど、母親に逃げ場はない。
夫は仕事に忙しく、育児はほぼワンオペだったが、旧習を押し付けられる環境でなかったことは感謝しなければならない。

「今から転勤しろって言われたら?」

「断る」

即答。
香織は声を出して笑った。


「新幹線を通せば都会から人が来るなんて勘違いしてさ、都会に憧れる若者を全員送り出して廃墟になってりゃ世話ないよな」

緩やかなカーブに身を任せながら、夫は言う。
香織の笑い声で、少し気が済んだのか。
先程よりは語尾に棘がない。


あまり自分の昔話などしない夫に代わって、あれこれ香織に教えてくれたのは義母だった。
香織が若かったから気を使ってくれたのか、「あたしはお父さんの実家行くと、いつも頭痛くてね」と笑い、赤ん坊を見ているから横になれと、いつも休ませてくれた。

その義母が早い認知症と診断されたのは、一昨年のことだ。
物忘れが増え、人と話すのを嫌がるようになった。
退職した義父が、自分が介護するから大丈夫だと言うが、そのうち香織が手伝う日が来るだろう。
長男の嫁だからではない。
かつてよくしてくれた義母へのお返しだ。

しかし、そうすると、子供が手を離れたら正社員にと軽く考えていた道は、叶いそうもない。
収入もだが、今の仕事が楽しくなってきていた香織は、落胆も隠せない。

せっかく4年制大学を出たのにパートなの?と、人からあからさまに聞かれたことはなかったが、なんとなくいつも、香織の胸には黒いもやもやが住み着いている。
大学時代の同期には、腰掛けのような就職をしてあっという間に嫁に行った子もいれば、今も独身でバリバリ働いている子もいる。
どちらが幸せか、どちらが正解かと言われても、香織には答えなどない。
もし聞かれたら、どちらとも疎遠になったからわからないと言うしかない。

キャリアを積んで第一線で働く自分が、想像できるかと言われたらよくわからない。
それと同時に、主婦である自分にも違和感がある。
息子は可愛いが、たぶん自分は世間の女性に比べると、子供が嫌いなんじゃないかなと、周りのママ友を見ると感じてしまう。
きっと、結婚したら子供を産むのが当たり前だという病に、あの時期かかっていたに違いない。
母親になったことを後悔はしていないが、もっと社会に、世間に貢献する自分も、どこかに存在したのではないかと、時折香織は考える。

仕事を辞めるのも、パートを休んで子供を病院に連れて行くのも、同じ大学を出た夫ではなく、香織だ。
必死だったあの頃は何の疑問も持たなかったが、この先を考えるようになって、不意に「あったかもしれない、失った時間」を思う時が出てきた。

この先、認知症が進んでいくであろう義母を世話し、義父を見送るだろう。
夫の兄弟は、どこまで手や金を出してくれるだろう。
自分の両親だって、年代は同じようなものだ。
いつ倒れてもおかしくはない。

子供はあと少しで家を出るが、次は夫が年老いていく。
正社員になれてもなれなくても、そして自分も老いていく。

更年期障害って、いつから始まるんだろう。
介護と自分の体調不良が重なったら、どうしたらいいのだろう。

こんなことを悩むために、自分は大学まで行ったんだっけ。



窓の外には、時折民家が現れては消える。
隣の家まで何百メートルあるんだろう。

この地に住む人たちは、香織の街より遥かに、病院も役所も買い物ですら、行くのが大変だろう。

そして、この地を出て新幹線で都会に行った若者たちは、今の香織と同じ立場になった時、帰ってくるのだろうか。親の元へ。捨てた故郷へ。


「酔った?」

黙り込んだ香織を、夫が覗き込む。

「ううん、大丈夫。病院とか遠くて、住むの大変そうだなぁって」

「今、車壊れても、JAF呼べなかったらどうしようもないよね」

夫が笑う。
しかし、本当に笑い事ではない。



カーブを抜けたら、一気に道幅が広がった。
視界が眩しくなる。

「わ」
思わず、声を出す。

「除雪の関係だろうね」

そうか、自分たちは豪雪地帯へと向かっている。
梅雨入り前の爽やかな風の中で、この広い道路が雪に埋もれるところは想像がつかない。

雪に閉じ込められる期間が、他所より長いこの地で、自分よりも閉塞を感じながら子供を産み育て、親の介護をする人々を思うと、香織は悲しくなった。

お前なんか恵まれているのに文句を垂れるな、と言われそうで。


先祖代々の土地を守り、過疎化する場所で生きていくことは、香織にはできそうにない。
しかし、他の誰かから見たら、子供を産み、親を看取ろうとする香織もまた、古臭い人間の端くれだろう。

皆、誰かの背中を見て、自分の生き方を選ぶのだ。
強制されようと、されなかろうと。




夫の実家は、先祖代々というほど何百年も続いた「家」ではない。
なくなったところで、歴史はちっとも困らない。

これから先、香織の息子たちの時代になれば、お墓どころか、死ぬ時の手続きすら変わっていくのではないだろうか。

少なくとも香織は、まだ見ぬ息子の配偶者になる女性に、今香織が直面しているような面倒事を引き継ぎたいとは思わない。



気晴らしに走るいつもの直線道路には、くねくねと曲がった山道と、雪に閉ざされる閉鎖的な空間に繋がっている。

日が暮れる前に、また同じ道を戻って来た時、解放されたような気分になれるのだろうか。

今が、面倒事のほんの始まりでしかなくとも。



義父の兄という方が先年亡くなり、本家と呼ぶモノの跡取りが居なくなった。
残された奥様は、都会に住む息子夫婦の元に身を寄せることになりそうである。

義父母も、この街には戻らず、今住む県庁所在地に、永代供養墓を購入すると決めた。

夫と香織は義父の名代として、墓仕舞いのあれこれを問い合わせに、向かうのである。




今日、私たちは。

そう、昭和の生き残りの私たちが。


墓を、仕舞いにまゐります。

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