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カップラーメン・アート

 俺は今まで知らなかった。世には2倍や1と少しの早回しで作品を鑑賞している人がいることを。

 オートチューンについて先に書いておこう。オートチューンとは簡単に言えば「音程を変えないまま早回し・遅回しができるテクノロジー」だ。
 経験者には分かってもらえると思うが、例えば盆踊りや日本舞踊など、「教材の一部」として使われてきたカセットテープなどは、その再生時間からほぼ絶対的に延びている。要するに音程もテンポも狂っていて、しかも何の機材で再生するかによって全部が違う。中東音階やインド音階のような、記譜もできない微妙な音が鳴るのだ。

 オートチューンはこの問題を取り除き、例え倍速にしても元の音階で再生してくれる救世主だ。ただし「余白」も圧縮して再生してしまう諸刃の剣でもある。例えばギタリストの渾身のチョーキングも倍速で再生されてしまうのだ。

 これは確実に映像作品にも反響され、余白(タメ)は淘汰されてしまうだろう。いわゆる「間を持たせる」ような演技が排他されてしまうのだ。倍速で見た場合、小津安二郎の「東京物語」は1時間と少しで終わる。あの「間」がなくなってしまうのだ。俺はこれをよからぬ傾向だと認識している。映画を全てマイケル・ベイのように常に情報量で埋め尽くしたいなら別だが。

俺はそこで生まれる貴賤の差を危惧している。誰が倍速で口笛を吹く「蒸気船ウィリー」を見たいんだ?ターミネーター2もトイ・ストーリー3も溶鉱炉に沈むまでにドラマがあったのだ。俺はそんな格差認めないからな。

 1.5倍速でシュワルツネッガーやウッディたちが溶鉱炉に沈むのを是とする世界で俺は生きたくない。全て意味があるんだ。親指を立てて沈んでいくシュワルツネッガーにも、最後の最後に手をつなごうとしたオモチャたちにも同等の意味がある。俺はそれを早回しの世界で失いたくはない。それだけだ。

 確かにカントリーを倍速にすればロックンロールやロカビリーになるし、スカを0.5倍速で聴けばレゲエやダブになる。だからこそ原典の速度は重要視されなければいけないのだと思う。これは一音楽ファンの私見だが、あながち間違ったものでもないと思う。黒澤明にインスパイアされた「荒野の七人」を倍速で見ていいはずはないのだ。

 俺はこれを「虎よ、虎よ!」に近い現象であると考えている。時間的富裕層はそれを等速で見ることができるが、時間的貧困層は「こういったものもある」というコマーシャルのように30秒あるいは15秒で見るしかないのだ。これは等速で見られない層が退屈だからなどではなく、その余白に費やす時間を惜しんでいる時間的貧困層だからだと言い換えることもできるだろう。

 人生は有限だ。下手をすれば映画を見ている間に死んでしまう。だからこそ必要な栄養素をしっかりと摂取する必要がある。「この曲を聴いている間に絶命してもいい!」「俺もこんな映像美の中で生きたかった!」という経験が必要なのだ。人間に必要なのはどうにかクリアできそうなレベルの試練だ。俺はそう考える。俺は中学生の頃教科書でモネの「睡蓮」を見て「あぁ、これは俺が生きている間に見ることができないような世界なんだ」と絶望して泣いたことがある。life goes onだ。俺にはモネの見ていたものを見ることができなくても人生は続いていく。だから俺は全ての美しいものを破壊しようとする働きに断固として反対する。それがエド・ウッドの映画だったとしてもだ。

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