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1966年のボブ・ディラン

 みなさんは音楽に頭を撃ち抜かれたことがあるだろうか?俺はある。そのせいで、もう10年以上は弾いているというのに「お前まだそんなプレイしかできないの!?」と同業に蔑まれそうな演奏をしながら曲を作っている。
 極端に言えば俺は曲を作りたいという欲求などまるでなかった。
 だが2005年にボブ・ディランのブートレグシリーズの一環である『ノー・ディレクション・ホーム』のlike a rolling stoneを聴いてから全てが変わった。泣きながらタワーレコーズのレジにそのアルバムを持っていったのを覚えている。レジで対応してくれたお姉さんにしてみれば、身長190㎝の男が泣きながら4000円以上するようなアルバムを泣きながらレジに持ってくるのは恐怖感を与えてしまったかもしれない。でもどうにか彼女は対応してくれ、俺は自分では数番目の家宝を家におくこととなった。
 いざ災害だ土石流だ災害というので逃げろとと言われたら、俺は数冊の画集、ディランの対訳詞のブックレットといったようにペーパーデーターばかりを持ち出そうとするだろう。俺の曲なんて誰でも再生くらい簡単だしな。問題は言葉だ。文字なのだ。俺は「初めに言葉ありき」というのを信仰しているので、割と言葉は大事にしている。言葉というのは言の葉であり、葉が付くには枝が、幹が必要であり、それを支えるには強大な根幹が必要だ。俺はこれを人間そのものだと認識している。
 俺に「お前なんか何者でもないんだ」と教えてくれたのはディランだし、そんな俺に背骨をくれたのはヘミングウェイだ。
 だから俺は今日も肋骨みたいに細い背骨のまま生き延びてやる。

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