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その名はツナ

 生まれて初めて猫を見た日のことなんて覚えてるのは僕くらいだろう。
 それは非の打ち所のない立派な生き物だった。今なら分かるが、他の猫ならなめらかな曲線を描いているはずのところが筋張って、大胸筋は張り出していた。尻尾は折れ曲がっておらず、ゆるやかに体の周りでカーブしていた。僕はその姿に感心して路地裏の主を眺めていると、一緒に歩いていた母親に手を引かれそのままその場を後にした。
 後日、友達と一緒に遊んでいる時にもまたその猫を目にした。猫は日向で香箱座りをし、公園のオブジェになっていた。遠目に見ていると、そのベンチへ近所では顔の知れた飲んだくれのおじさんが腰を下ろし、コンビニのレジ袋から缶詰を取り出して開け、猫の前へ置いた。猫は缶詰を一瞥したがなかなか口をつけようとしなかった。
 その頃自治体では野良猫の駆除に力を入れていて、毒を入れた餌を撒いたりしていた。これはその後の話だが、毒餌を食べてしまい、口から泡を吹き目を見開いたまま死んでいる猫を何匹か見たことがある。
 猫もそれを警戒していたのだろう、何度か臭いは嗅ぐものの口はつけなかった。そのうちおじさんはいなくなり、日向には香箱の猫と缶詰が残された。僕は好奇心に駆られ、猫へ近付いてみることにした。あのおじさんが座っても逃げなかったのだ、きっと僕にだってできるとでも思っていたのだろう。
 事実、僕が隣まで行って座っても猫は動こうともしなかった。横で見ると猫は思っていたより大きく、また実際にオブジェであるかのような重量感も備えていた。僕は好奇心を抑えられなくなり、猫の背中をそっと撫でてみた。猫の眉間には皺が寄っていたが、それが生来のものなのか不愉快さの表れなのかは当時の僕にはよく分からなかった。ふと缶詰に目をやると、それは猫缶ではなくツナ缶だった。僕はツナ缶が大好きで、よくサラダを作っているのをこっそりツナだけつまみ食いして母に叱られていた。目の前に僕のものではないツナとそれを食べようとしない猫がいる。僕の興味はツナ缶に移った。
 猫の前からそっとツナ缶を取って、それを指で摘んで一口食べた。いつも通りツナ缶はおいしかった。しかし猫に目をやるとその表情は一変していて、明らかに信じられないものを見る顔つきになっていた。試しに僕は缶を猫の前へ戻してみた。猫はまた臭いを嗅ぎ、しばらくあちこちから眺めていたが、ついにしびれを切らしシーチキンをかじった。猫がツナ缶をかじると缶が前へ前へと移動してしまうため、僕は猫が食べ終えるまで手で押さえていた。ツナ缶はおそらく1分も持たなかった。猫は香箱を崩して起き上がり、前脚で顔を撫でたりなめたりしていたが、その消えない眉間の皺のせいかどこか不満気な顔で僕の様子を伺っていた。僕はふと気付き、缶を持って水道に行き、水を入れて戻って来た。猫の前にそれを置くと、舌でチロチロと水を飲み始めた。僕はこの猫と友好的な関係を構築できそうな気がしていた。なので猫が水を飲み終えるとどうにか抱きかかえ、うちへ連れて帰った。
 もちろん両親は激怒したが、僕も猛抗議した。「もう餌だって水だってやって仲良くなった!捨てに行くのなんか嫌だ!それに捨ててもすぐに戻ってくるに決まってる!」という風に。猫は僕の腕の中で硬直していた。
「名前だってある!ツナだ!」
 僕が他の何を提示されても飼うことをあきらめなかったため、最終的に両親は折れ、ツナは我が家の一員となった。ある晩夏のことだった。

 月日は流れ、両親の下も離れ、今僕とツナはこの家でふたりっきりだ。今ではツナはちょっとした人気者で、近所の子もツナと遊びたがる。そういう時はその子らを家に招き遊ばせてやるのだが、あの日と同じようにツナはどこか不機嫌そうに眉間に皺を寄せてうずくまっている。
 僕は時折ギネスブックを開きそのページをツナに見せて顎の下をなでてやる。ツナは低く短く喉を鳴らす。

「2000年 世界最大の室内飼育のライオン ツナ」

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