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本日も晴天なり(マイ・ミュータント・デイズ 潜入編 冒頭)

 2019年、2月初旬の朝、俺は鳴り止まない電話に起こされた。そうだった、今日は出発の日じゃないか。ありったけの服と数冊の文庫本、ラップトップをバッグに詰めて家を飛び出す。母には「出稼ぎに行ってくる」とだけ言い残した。

 これが何もかもの始まりだった。
 
 俺は昨日の酒も抜けないままにフラフラと空港へ行き、どうにか飛行機に乗る。久しぶりに飛行機に乗ったはずだが、どういった感じだったかはあまり覚えていない。到着先の空港では俺の友人で、これから幾度となく俺の命を繋いでくれることとなるサメさんと、数か月前に何かで逮捕されたばかりのパチさんが俺を待っていた。

 我々が会ったのは1年半ほど前のある飲み屋だった。最初にどういった話をしたのかはよく覚えていないが、サメさんとブタさんとは何度も店で会うため自然と仲良くなった。俺はもともとが出不精であり、同級生や地元の友達とも意図的に距離を置いてきた。だがなぜかパラダイムシフトが起こり、その反動のようにしょっちゅう飲みに出るようになった。だがそうして自ら関わりを断とうとしているやつに気軽に誘える独身もおらず、なおかつ俺がここの歓楽街まで出て行ってまともに帰宅できる自信も皆無だったために俺はその少し手前の、構造の上風の通り道になっているやたらと風通しのいい飲み屋で酒を呷り、自分は貧乏なくせに男女を問わず見ず知らずの人に酒をおごり、「あなたはどこから来たのか?そこにはどういったものがあるのか?そこはどういう土地なのか?」と聞くのが趣味になりつつあった。

 俺は半ば強制的に取らされた原付きの免許しか持っていないし運転は大嫌いだが、車自体は好きだったために、中肉中背で髭面のサメさんとはいつも車の話をし、文字通りのファットマンであるブタさんとは金融市場の動きや日銀の市場介入や資本主義の話などをした。後に分かったことだが、サメさんは元右翼でありブタさんは何らかの前科持ちだった。サメさんとブタさんは共同で事業をやっており、そういった繋がりの中でパチさんとも会った。パチさんはまた別個に自分の会社を持っており、何をしたかもよく知らないが数日ここで喰らい込んでいる。パチさんはブタさんとお互いに「兄弟」と呼び合い、少なくともその時点での関係は良好だったように思う。当時勤めていた会社を同僚の密告者とそれを飼い続ける社長の関係性の気持ち悪さに耐えられずに辞め、無職になり求職していた俺にブタさんその作業員の仕事を紹介してくれた。曰く「20kgもないような太陽光パネルを運んで月20万の仕事だよ。でも盆まで帰れるとは思うなよ?」という。前職の仕事内容には全く不満がなく、ブルーカラー的な仕事の楽しさを見出し始めた矢先に件の密告者と社長の関係性が判明して辞めたので、俺にとってその現場仕事はなかなか興味深いものだった。

 またここの賃金や雇用の問題もある。地元では月に20万も稼いでいればかなりの高給取りの部類に属するほど賃金水準が低い。正社員の求人は9割以上が『要普通免許』である。そして俺はアル中だ。3人の医者が個別にそう診断したのだからおそらくはそうなのだろう。自分が事故ってひとりで死ぬ分には別にいいのだが、俺が運転をミスったせいで誰かを死に至らしめるということだけは絶対に嫌だったために、頑なに普通運転免許を取らないまま歳を重ね、俺が応募できる仕事はほぼなかった。そして残念なことに俺は現状を打破するためにもここから出て行きたかった。とても。とてもだ。

 我々が目指すのは空港から高速道路を経由しても車移動に半日以上もかかる○県だ。ハンドルを握るのはパチさんだ。俺は普通運転免許を持っておらず、サメさんは違反と事故で免許取り消しを食らっていた。途中サービスエリアで昼食を取った。基本的にああいった場所の食事はどれも高いので、俺はなるべく安いものを選び、ふたりは千数百円するようなものをロクに値段も見ないまま注文していた。ああ無情。

 その何時間後だろうか?ほとんど日が暮れようという時間に我々はその県では最も乗り降りする人が多いという駅に行き、他のこれから同じ部屋で同居する残りのメンバーと合流した。
 ひとりは眼鏡のいかにもチャラそうな眼鏡りょん君、もうひとりは眼鏡だがどちらかというと休日は家でずっとゲームをしていそうなモノ君、そして一番の年長者でありビックリするほど前時代的なヤンキーの髪型をした背の低い中年の眼鏡ネズミ、そしてこれから我々の指揮を執るサメさんも眼鏡。何だよ俺以外全員眼鏡じゃねえか。もっとも俺はこれがあれば少しは頭がよく見えるかと思い伊達眼鏡をかけていたが。

 その日のうちにサメさんとパチさんはホームセンターを周り、布団や作業具や安全靴や工具など必要なものを人数分揃えてくれた。そういった感じで我々の共同生活はスタートした。パチさんはその晩の間にいなくなり、俺は背の低い前時代的な中年眼鏡と同じ部屋になった。今になって考えると消去法で同室になったのだろう。ネズミは酒を飲むと饒舌になるタイプらしく、俺は共同生活2日目で耳栓を買った。話の内容は主に自分の若い頃の武勇伝などであり、有り体に言ってしまうと俺にはクソどうでもいいことだ。3日目に我々の班長であるサメさんが、その借家のどこにいても聞こえるようなデカい声の武勇伝と罵詈雑言にキレて一晩中ネズミを説教していた。俺も同室である以上途中まで何となく付き合ったが、あまりに人の話を聞く気がないネズミの態度にうんざりし途中で部屋に戻り寝た。どうしてお前は自分のコップだけではなく俺のコップまで灰皿にするんだ?

 我々が従事していたのはよく言うならば建設作業員、簡単に言えば土方だ。我々の仕事はメガソーラーの建設作業である。
 俺とサメさん以外はパチさんが社長をしている会社から来ていた。少なくとも俺は全くの未経験で、インパクトドライバーを使ったことも電動丸ノコで寸法を測り鋼材を切り出したこともないド素人だ。
 我々が初めて現場に入った日は、現場にソーラーパネル設置に必要な物資さえ揃っておらず、なぜか雨に打たれながら『杭打ち』と呼ばれる、重機で地中の岩石を砕くようにして土台となる支柱を打ち込む作業の手伝いをした。

杭打ち

 重機の操縦者はオペレーター、通称『オペ』と呼ばれ、ある程度打ち込まれるまで杭を垂直に支えておくような人を『手元』と呼ぶ。俺はこれもそこで初めて知った。
 様々な部材が揃ってからも最初の数週間ほどはサメさんに毎日幾度となく怒鳴られ、「ここはこうやって繋げっつたろうが!」、「お前単管(軽自動車の重さにも耐えうる鋼鉄製のパイプ)で頭割られたいのか!」といった叱咤激励とスパルタ教育を受けていた。言い添えておくがサメさんは普段とても温厚な人であり、タコハウスに帰ってからは俺の何が悪くてなぜそこで怒鳴ったのかをちゃんと教えてくれる好人物だ。

 我々の借家(これからタコハウスと呼称する)からは現場まで車で産業道路を通って1時間ほどかかる。途中でコンビニに寄り、その15分ほどで全員が慌ただしく朝食と昼食を買う。早朝のコンビニには我々と同じように作業服に身を包み、これから倉庫や工場や現場に向かうであろう客で混雑しているため、会計にはそこそこ時間がかかった。朝食は移動中に車内で食べる。朝礼は8時頃からなので、余裕を見て出発は7時前、支度のためには6時半より前には起きなければならない。俺はいつの間に目覚ましをセットしなくても6時前には起きられるようにたっため、みんなを起こす役割を果たすようになる。あれが悪い曲だとは思っていないが、クソ寒い2月にゆずの「夏色」が爆音で鳴るクソ不愉快な目覚まし時計を枕元に置いているバカのおかげと言えなくもない。彼らの中では年長者であるりょん君が一度「キツいんなら部屋変わろっか?」と言ってくれたが、「お気持ちはありがたいんですが、絶対に誰かが俺と同じ思いをするんです。俺はそれを誰かに味合わせたくないんです」と言い丁重にお断りした。

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