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90年代初めの上海

90年代初め、上海は激動の時代だったらしい。

私は子供だったけど、人攫いが多かったので外で子供同士で遊べるわけでもなく、一人っ子だったし、遊ぶ相手も話す相手もずっと大人たちだった。アニメはスマーフ、漫画はタンタンとミッキーマウスと、「三毛流浪記」を愛読する子供だった。
時代の意味はわからないが、大人たちがこぞつて浮き足立つのは理解できた。

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証券取引所が開設された。誰々のおばさんがいくらいくら株で儲かった。マブダチの誰誰のおじそんが大損をした。吝嗇家の何々さんがインフレで貯金が1/10の価値もなくなったとか、そんな話がよく伯父さんたちの口からもたらされて、堅物のお爺ちゃんおばあちゃんはただ左耳から右耳に話を受け流した。

フランス人が植えたプラタナスの葉が生い茂る上海の街角。バタークロワッサンの代わりにラードが香る大餅油条が道端で売られているこの街で、証券会社の窓口は朝ごはんの市場とそれほど変わらない。パジャマ姿のおばさんと、ランニングシャツをきたおじさんたちが、お目当ての電光掲示板を睨み、お互いが情報を交換し合う。90年代上海版の5ch投資板。

家もみんな変わった。動迁と言って、家が強制的に取り壊しになり、その代わり郊外に広い家を補償として与えられた。何年後にその補償された家がとんでもない値段に跳ね上がる。そうしてお金の産み方も使い方もわからないまま億万長者になりあがる人が何千何万と生まれた上海版わらしべ長者。

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80年代に生まれた個人事業主を意味する「個体戸」はのしあがるゲームチェンジャーになっていた。小2の時に仲良しになった女の子の父親は布生地屋の個体戸らしい。価値観が旧態依然のお婆ちゃんは少し侮蔑のニュアンスを込めてそう私に言う。ようするに付き合う人間を考えなさいよという意味。

でもお婆ちゃんの思う勝ち組は転落した。国営企業に勤めていたゴールデンコースの人たちーー私の上の伯父さん含めてリストラされた。リストラという言葉をそれまでに聞いたことがなくて、初めての語彙が多く生まれた。

下崗、リストラされること。
イカ炒め、クビにされること。
糊を掻き混ぜる、適当な誤魔化しをすること、要領よく生き残ること

上の伯父さんはお婆ちゃんが働いていた国営の紡績工場の職場を継いだ。下の伯父さんはお爺ちゃんと同じ公務員になった。社会主義で四旧打破したはずなのに何故世襲するように就職するのかが子供ながら不思議だった。ブルーカラーと公務員しかいない時代。

伯父さんは紡績工場を出て、ギャラクシーホテルという今風のホテルに就職した。ホテルはその昔外国人か華僑でなければ入れない場所だったので、一般の人は誰もが憧れていた。
伯父さんが当時付き合っていた彼女に初めて会った時に、彼女がきていたサテン地の紺色のジャケットとその中にある胸元が大きく開いたワンピースのアンサンブルが忘れられない。こんな綺麗な服を初めて見たので、文字通りドキドキした。伯父そんの彼女が私を誘惑したわけじゃないのに。
私は50代のお婆ちゃんと暮らしていたので、信じられないぐらいダサかった。

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