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どうして僕は生きているんだろう。

こんにちは、コジコジです。

今日も皆さん何にもやることがなさそうですね。わかります。僕もないです。じーっと家にいると、嫌な気持ちがどんどん生まれてきて、軽率に死にたくなりますよね。この外出自粛期間で、自宅でメンタルを保全し続けられている人がいたら尊敬します。たぶん僕も大手企業の内定があったらメンタル保全できますね。

やることがないと、ぼーっと色々なことを考えます。将来のことや現在の状況、好きな人のことや友人関係のこと。そうやって考えていくうちに、自分の人生にはなんの希望もないんじゃないかって思い始めてきて、全ての事情を悲観的に捉えてしまうんですよね。何のために自分は生きてるのか、何が楽しくて毎日生き長らえてるのか。ぶっちゃけ現代を生きる若者に生きる目的なんかないんですよ。周りにただ漠然と生かされているというか。僕はとりあえず親が養ってくれてるから生きてる。僕が死ぬと親が悲しむだろうから生きてる。みたいな。もし自分に親のような無償の愛を与えてくれるような存在がいなかったら、多分今すぐにでも死にます。でも自分の死を悲しむ人がいるから生きてるって、それ生きる意味じゃないですよね。○○がしたいから生きてる!みたいに生きることに積極的な理由を見出してないので。そう考えると、やっぱり将来の展望が見えない今、そっと1人で死んでもいいのかなって思っちゃいます。(もちろん実際に死ぬことは無い。)

悩んでいる人に対して、「でも宇宙の広さに比べればそんな悩み、大したことないよ!」と大的外れな助言をしてくる人がいます。いつから僕の人生は宇宙と比較対象になっているんでしょう。宇宙と比べたら、僕の悩みどころか、僕の存在すら、意味を持っているのか怪しいです。なんかこう、自分が思っている以上に自分の悩みはおろか自分の存在意義というのは曖昧なものなんだと実感します。

なんだか、ここまで書いてきたような「自分が生きていることへの疑い」を持っている人って何となく見たらわかります。表面的には気丈に振舞っていますが、たぶんこいつは自分に生きる意味がないことを悟っているな、という感じ。別にそういう人が特別だとかは全く思わないし、むしろ劣等的だと思っています。大抵の人はただ毎日を何となく過ごし、何となく楽しんでいる。人生を謳歌する上で、自分の存在意義について疑問を持ってしまったらそこで試合終了です。なぜなら僕たちが生きている意味なんてないからです。自分なりに、人生についての問いを重ねていく中で、常に生きることの虚しさを痛感します。考える脳ミソ、周りを見渡せる目、喜怒哀楽の感情、生きていることの実感、こういうまるで自分が主人公だと思い込んでしまう要素が人間には備え付けられすぎていて、自分が世界の背景の一部に過ぎないということを忘れてしまいます。

そうやって悩んでいると、外出自粛も相まって、自分の漠然とした悩みを理解してくれる人なんていないって思いますよね。自分のことを理解してくれようとする人はいても、やっぱり自分じゃないから単なる同情にしか思えない。だから相手の思いやりも理解せずにその人に当たったりしちゃいます。助けてくれる人の気持ちがわかるからこそ、今は助けないで欲しい。助けてのサインは、助けないでのサインだったりします。自分自身の悩みは自分自身で病み尽くすことでしか解決できないですよね。好きな人が悩んでいたりすると、「僕が話を聞こうか?」と言いたくなりますが、必死に気持ちを抑えてます。もしかしたら、本当に僕に話を聞いてもらいたいと思ってるかもしれないですが、そういう時はそっとしておきます。

では、自分が生きていることの証明はどこに求めればいいのでしょうか。思うに、僕たちは生きてるから生きてる実感がないのだと思います。生きているからこそ、まだ経験したことの無い死をリアルに考える。生きているからこそ、生きていることを捉えることができない。たぶん死んだ後に、「あ、自分はこの瞬間まで生きていたんだな」と、生きていることを実感すると思います。つまり、死ぬことが生きている証明なのです。死にたがる人、よくいますけど、結局彼らも自分が生きていると実感したいから死にたいんですよね。身近な例で例えたら、学生生活。たぶん学生の皆さんは、学生であることが当たり前で、学生以外の身分になったことがないので、自分が学生であることを実感できないと思います。でも社会人になったら、学生と社会人という2つの経験をすることで、「確かにあの時までは学生だった」と思えて、初めて自分が学生であったことを実感すると思います。生きることと死ぬことも同じです。

生きてることに疑問を抱いて急いで死へと向かっている人は、たぶんそれが積極的な生きる目的になると思います。生きる意味を知るために死ぬ、死ぬ時のために生きている。幸せですね。孤独にさいなまれ、本当に死を覚悟しつつある時、それはいわゆる生きることへの渇望です。なんだか話がこんがらがってきました。とりあえず、コロナの外出自粛で病んでいる人は、それって結局必死に生きる目的を探してもがいているんだと思うことで、少しは気が楽になると思います。いつか来る死を自ら早めるのではなく、うまく死ぬ方法をひたすら探し続けましょう。


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