【日常的な】脳が持ってかれる感覚についての

・「脳が持ってかれる感覚」、これについていろいろ書く。母親的俯瞰でもってみると、なんだか危なげな文字列である。この文字列だけを眺めただけでは、この感覚を理解できないだろう。ということで少しだけ説明。

・なんのことはない。ごはんを食べ終わった時にそんな感覚がするのである。たいていこの世に存在するものなら食べた後にそんな感覚がする (この世のすべての食べ物を食べたことがあるわけではないのでこの文は偽です。よしなに)。

・この感覚はおそらく生理学的な解釈うんぬんで語れる話なのであろう。血液ががんばる、消化がどうにかこうにかやった結果、みたいな。

・でもそれで終わりじゃあ、このnoteに文字列を入力する意味がない。そうだろう。私が言いたいのは、そんな感覚を毎回味わわないといけないなら、ごはんを食べるのをやめたい、ということである。ぶっそうだ。

・この前、とある多忙小説家の一日のルーティンを撮った動画を見た。その小説家の一日に摂った食事はレッドブル (たしかノーマルのやつ) のみであった。これだと思い、自分もやってみた。レッドブルが脳を掴んで離さなかった。裏切られた気分であった。
(健康に悪いうんぬんの思考はここでは霧なので。よしなに。)
 お茶ならそんな感覚が無いから、同じ液体であるレッドブルなら期待通りやってくれるだろうと考えていたが。いやはや。理性的論理的合理的な人間になりたいものである。

・ここまでこの「脳が持ってかれる感覚」に対して、「いやだからやめてほしいんですけど!」という立場を表明してきた。これだけでは、虚空を撫でたが如し、ただただ無益な時間を捻出するだけではないか 
(聞き手がいて、その人がためになった!という聞き手への実益とフィードバックがあってこそのnoteではないでしょうか。つまりこのままだと万が一聞き手がいたとしても、その人に実益がありません。ぜったい。)

・しかし私とて人間である。ごはんを愉しみたい。ならば考えるべきは一つ。魔 (※「脳が持ってかれる感覚」) の来ない食べ物および食事法を考えたらいい話である。 

・というか、それを考えようとして本当はこのnoteを書き始めた。始めのうちは、書いているうちに何か思いつくだろうと思っていったのだが、ここまでだらだらと。浅はかだった。理論的賢賢かしこかしこ人間になりたい。

・というかそれは、今後の様々な経験にこそあるのではないか。これまでの自分には太刀打ちできなかったわけだから、それまでの知識・経験・知見etcでうんうんしたところで、解法が生まれるわけがない。たぶん。かしこかしこ。

(けっきょく、無益だったのかもしれない。このnoteは。まぁ言葉にしなければ、それは無いと同然なのである。)

(いや、無益ではない。言葉にしなかった「脳が持ってかれる感覚」をある程度文字列に起こし、それについて少なくとも嫌だという表明を行った。これは、少なくとも私に対しては、意義のあるものだと言える。)

(でも、やっぱり聞き手には無益かもしれない。)

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