【日常的な】雑記 (干渉、中立、内側)

奥底から浮かび上がってきたもろもろを記述する。いずれの項においても、朝焼けのグラデーションである。

"干渉"について
 日々、自分の意志とは関係なくしてあらゆる情報と出会う。出会ってしまう、といったほうが、より正しくそのニュアンスが伝わるだろう。
 その情報の様相はさまざまで、私のそばをスンッ、と通りすぎるだけのものもあれば、計算された角度で確実に精神の一部を削り取ってゆくインパクトがあるものもある。これらは、私の意志とは関係なくやってくる。太陽が昇り、雲が遠くを流れてゆく道理に、私の意志は介在していない。
 生きていれば当たり前のことであり、別にいちいち気に病むことではないのだろう。しかしどうも痛みが内側に残り後を引くような、そんな残香がするのである。
 しかしながら、そのような残香にこそ牽かれて、見知らぬ場所へと連れていかれてしまうのである。

"中立"について
    人は区別する。あらゆるものにおいて、これはこれ、あれはあれと区別する。大体が二つの次元のグラデーションのはざまに落ち着ける。その作業は記述とも換言可能。言葉でも絵でもなんでもよいが、なにかしらの表現方法でもって記述する際に、それが事実の列挙、善い透明を描いているのなら別に言うことはない。
 しかし何故だか知らないが、何か物事に際してフィルターをかけて解釈したもの場合には、どちらか一方に偏ることが多々あるようだ。たとえ"中立"を表明している場合でさえ、そうなるケースが観測される。
    なにゆえそうなる?
    あるいはまた、そのような事情から逃れるために中立を選り好みする者もいる。中立に光の清廉を見出しているのだろう。どこか、偏ることに黒いものを感じているきらいがあるか?
    その者が頼りにしているモノサシを見てみたい。どのようにして“中立”を定めているのか見てみたい。私はそれを“中立”な立場から見てやろう。

“内側”について
   私は日々をうつろう。当然のことなの (だと思うの) だが、内面が同じときはない。例えば、本を読んだ、漫画を読んだ、そこから何かを得た、感じた。その時点で、以前の私とは違う私と言えるだろう。
 何をもって違うとは厳密には言えないが、同じではないとは言えるだろう。ちょうど、同じ川など有り得ないように。
 自分自身が嫌いだという人がいる。
 その人が嫌っている自分は、どういう自分像を指しているのだろうか。常に同じ自分像だろうか。それとも、ひたすらに更新され続けている自分像を嫌い続けているのだろうか。それとも、「自分が嫌い」という文言が、なにか別の意味をもっているのだろうか。
 自分自身が好きだという人がいる。大いに結構である。
 私は、私のことをどう思っているのだろう。
 目を閉じてみても、わからない。水面を覗いても、ただ黒い水面がひろがるだけである。

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