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心眼流稽古Zoom21回目 休みの考察/スタート地点を訪ね

今週はお休み。

就職するまで稽古していた、地元の道場を訪ねた。

この寒い冬の時期に小学校の体育館を借り、小さい子どもに空手を教えている先生は元気であるが、年を重ねいる姿を見て、自分の年齢も増えたなと思う。

北斗の拳の主人公、ケンシロウにあこがれ(いまだったら鬼滅の刃だったりするのかな?)空手を始め、20年以上稽古してきた。

10年以上経って久しぶりの道場に入れば、
「幼稚園ぐらいの習いたての子の稽古着がブカブカ」
「帯の結び方が縦結びになっている」
「小学生高学年の子の稽古着が小さい」
そんな風景が微笑ましい。

子どもたちが冬の体育館でも元気に一列に正座をし、名前を呼ばれ、大きな返事をする姿は当時は当たり前だったし、なにも変わらない風景だった。
でも今この時代になってもそれが続いてることが奇跡に思えたりしてくるのだ。唯一違うのはマスクをしていることぐらい?

一昔前になれば自分も、そんな姿をして、外から見たときには微笑ましい風景の一人だったのかと思ったりした。
そこで成長し、色々学んでいた自分がそこから飛び出して、
いまの時代に合わせて、空手や心眼流をリモートで教えいることが現なのか夢なのか、不思議に思えてくる。
自分が変わってしまったのか、世の中が変わってしまったのか、、、

自身の強みである長く続ける力は、この道場で身に付けたと思っている(※『ウガチガチ』の記事はこちら)

でも信長が人生50年と言っていたが(今は80年かな?)、50年間ウガチガチの能力を身につけるために稽古をすることはナンセンスかもしれない。短い人生、生きた爪痕は残したいかも。

いや、でも実は空手自体が楽しいと思えたり、周りの仲間と稽古すること自体が楽しいと思えれば、短い人生の貴重な時間をそうして使うことはステキなことだし、誰かのための人生ではないのだから、楽しいと思えたり、生きてるなと思えたりすることに時間を使うことがいいのかもしれない。

何かのために生きる、誰かのために生きるのか、
それとも、誰も自分で自分の生を決められず、産まれてきた理由はないのだから、産まれてきた以上理由はなくとも生きるとするなら、
「生きる」こと自体が目的でもいいのかもしれない。
精一杯生きる、生きてる時間、生きてる空間を使いきることかもしれない。

スタート地点は道場だったり、そもそもが親だったり、また自分が誰かの出発点を作れたらと思った時間でした。

次を担う世代のために、リモート稽古のために空手着や道具作成やリアルな稽古出張のために使います。