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喪失感 マインドフルネス 発達障害

スティーヴンマーフィ重松さんの本スタンフォード大学のいのちと死の授業を読んで

喪失によって気づかされるものがある

これまであったのに、失くなったことで気づくことがある

今まで生きてきて、生きづらさを感じてきた

何で生きにくいんだろう?
そこそこ話ができるけど、人といるのがしんどい
学生のときも振り返るとお昼は友達と食べずに一人で食べてたり
社会人になって仕事として人と話すようにもなったけど、でもしんどさが強い
みんな優しいのに、でも疲れる

できないことを見つけて、
じぶんの特性を見つけて、
だから発達障害なのか?
親もそんな傾向があったのか?
家庭環境が他と違っていたのか?

色々なことを疑い、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、ということを繰り返してきた

結局、診断をしてもそうでもないけど、そういう傾向はあるね、という感じである


なぜいま発達障害が多いのか?

多いのか、診断基準が変わったのかはわからない
でも生きづらさを感じている人は多いのではないか
じぶんは発達障害なのではないかと疑っている人も多いのではないか

そこにあるのは何なのか?

喪失感の欠如

人間は成長していく過程で様々な経験を身に付けていく
そしてよく言われるのが成功体験
小さなことでもいいから成功した体験を積み重ねてできることを増やしていこう
そしたら大きなことを成し遂げられる

ここに大きな落とし穴があるのではないか

じぶんが発達障害ではないかと疑うことは、
何かダメなんだけど、何がダメなんだろう、もやっとしていて、何か足りない感じがするとなっている。もしかしたら明白な喪失感を経験する機会が少ないからなのだろうか?

現代を生きる上で、経験上や思考回路においても、喪失感の経験は薄ぼんやりしているように思う

環境に適するために暑さ寒さをしのぐエアコンがあり、何とかなるり
知らないことは検索し、何となく知った気になれ
人との繋がりがほしければSNSを活用し、寂しさをまぎらわすことができ、
お腹空いたらコンビニに行き、何かの空腹感は満たせ

ツールを活用してできないことはなくなっている、
むしろできることばかりであるようにも思う

そんな中、人とのコミュニケーションが苦手、同時になにかを処理することが苦手、自信をもって仕事をすることが苦手、
でもできなくはない
だって様々なツールがあるし、できなくてもできるような工夫は世の中たくさんあるし、
結局、なにかを喪失できそうでできないことが多い

災害級の出来事で、電車が遅延して、会社や学校にいけなくなって、ホッとすることがある

結局はできることが多い、もしくは頑張ればできることが増えて、できないことが減った

それが喪失感の欠如であり、
どこかで頑張らないじぶんがいけないとなり、
頑張ればできるかもしれないけど、その頑張りは発達障害傾向があることによって過度な負担を感じたりするものだから、強くみんながじぶんに対して発達障害なのではないかと思い始めてしまう要因なんだろう


喪失感のマインドフルネス手順

頑張ればできることはなに?

それは頑張りたいこと?

頑張らなかったらそれはじぶんから遠ざかったいくもの?それとも頑張らなくてもちょっとじぶんからは遠い距離にあるもの?

むりして手を伸ばさずそのものとの距離を感じてみよう

頑張らなくても届くものはなに?

さっきのものとの違いはどんな感じ?

やっぱり欲しいかな?
手を伸ばしてみようかな、やっぱやめておこうかな

無理してつかまず、でも欲しいときにはたぐりよせてみて。
そしてもう手放したければ手放そう


次を担う世代のために、リモート稽古のために空手着や道具作成やリアルな稽古出張のために使います。