私的な詩的

久しぶりの散文で今回は私の詩を書く時の感覚みたいなものを書いていこうかなとしています。その前にどうでもいいんだけれど、詩歌って言葉あるじゃないですか。詩歌ってしいかって読むらしいんですけれど、しかの方が読みやすくないですか?私の感覚だけなのかも知れないけれど、しいかって言葉の音価が少し間延びしていると言うか、何か他の言葉と組み合わせる時とかに信じられないくらいに合わせづらく感じるんですよね。だから基本的に私が詩歌って言葉を使っている時は、しかって読む感じで使ってます。勿論そうじゃない時もあるかも知れないし、しいかって読む感じで使う時が来るかもしれないけれど、それは私の組み合わせた言葉を読んだ時のリズム感で判断して下さい、っていうどうでもいい話を終わらせてぼちぼち始めていこうかなと思います。

皆さんは詩を書く時に、主題を現実に見ながら書けたりしますか?例えば花を見ながら花を題材にした作品だったり、星を見ながら星の詩を書いたりとか。私はそれがなかなか出来なくて、どうしても目で入ってくる情報に意識を持っていかれると言うか。何か無駄に頭使っちゃうと言うか、書けたとしても何となくしっくり来ないというか。目で見た物以上のものが詰まって居ない気がして何となく嫌なんですよね。

じゃあどうやって書いてんのってなると、やっぱり頭の中で見えるものをそのまま書いているというか。よく私は目ん玉ひっくり返して直接見たいとか言っているんですけれど、この詩を書く時の物の見方の感覚がどっかで感じた事ある感覚だなって薄らと思っていたのが、最近気がついたんですよね。それは間接視野で視界を見ている時だなって。間接視野って球技とか、恐らくサッカーとかでよく使われる言葉な気がするんですけれど、私は小学生の頃から色んな球技に触れてきて、それは主にサッカーだったけれどバスケにバレー、バドミントンに卓球やテニス等色々としたけれど、どれも間接視野がどれもめちゃくちゃ重要だったなって今になって感じる。例えばサッカーとかだとゴールへシュート撃つ時や仲間へパスする時とか、瞬間的に全部見て状況判断するんですけれど、その時の感覚にすごく似てるんですよね。頭の中での想像を間接視野で見ているんだなって。厳密に言えばまた違ってくるのかも知れないけれど。

例えばこれを書いている今も、スマホを見ているけれどそれを持つ手に文字を打つ指先、その向こうにはモニターだったり鏡だったり、机だったり漫画ばかりの本棚、机に椅子や壁に床。横の方には腕だったり肩だったり、扉や窓。そして目には見えないそれ以上後ろで見えているのが、想像している景色。それを間接視野で見るっていう感覚。直接は見ていないけれど、見えている感覚。漠然と景色を見ながら、もっとよく見たいけれどもっとよく見えてしまったら逆に見えなくなるし。

だから私の場合は、その景色が見えないと書けないんですよね。これもよく言っているけれど、よし今日は書くぞーって気合いある時でも書けないし、やる気無い時はその通り書けないくせに、その逆があるから詩を書くのは本当に気持ち次第だなって。小説書く時は物語自体が出来ていれば、モチベ関係無く無理矢理にでも書いていけるけれど。そこが詩を書く時と小説を書く時の違いかもしれない。

他の人はどうなんだろうか、私がたくさん球技をして来たからこういう感覚なのかも知れないし。だから私の場合は景色さえ見えれば書けるというか、いや皆そうか。だから詩の書き方とか聞かれても、見たままに書くんだよとしか言えないのかな。頭使って考えて書いたりすると、私の場合は先にも言ったけれどしっくり来ない作品になる。景色さえ見えていれば、爆音で思い切り攻撃的な曲を聴きながらでも、切ないような詩も書ける。暑くさえ無ければ、環境要因は私には無いかもしれない。だから夏は嫌い暑いから。

そんな感じ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?