桜が見れないとき
桜の花は、ときに眩しすぎる。
それを見た人々は、おめでたいとか、きれいだとか呑気にそういうことを言う。
光をよけるために、そういうことにしたりすることもあったけど、やっぱりそれも苦しかった。
今はただ、遠くにいるあの人が元気でいてくれたらいいなとか、花びらの飛んでいった場所のこととか、何年も先のこの幹から見える世界のこととか。そういう、私が捉えれないような、遠いところのことを考えたりすることにしている。
呑気になる、というのはこういうことから始まるのかもしれない。
現実を受け入れがたく、上を向いて歩けない時があっても、それは意味のあることだと思う。
つよく、優しくなるために。
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